人文科学の進むべき道は?
2010-03-07
6日(土)午前中に仕事をしていると、突然、休日である日曜日に仕事が入りそうな話。たぶん無意識に拒絶モードが全開になるのだろう。言ってきた者たちに対して、「やむなく」という気持ちで接するしかなくなる。自分の中で休日は、単なる「休み」ではなく、自分が行いたい研究を支える大切な時間だ。オプションである仕事がはみ出して、個人的なその時間を奪われることに対して、大きな抵抗があるのだろう。事前に協議の上で予定されたことであるならば、自分も納得するのだが、突発的に相手の立場を考えない申し出には、嫌悪感だけが渦巻いてしまう。
午後には職場を飛び出して、研究会に向かう。自分が生まれて初めて研究発表をし、処女論文をその機関誌に掲載してきた産みの親のような研究会だ。この日も、2人の若手研究者が発表をした。メディア・出版と様々な分野の方々とも交流するようになって、「研究」という自身が行ってきた領域を、客観的に自省的に見るようになってきていた。社会との接点をどう保つか?そんなことを改めて考えつつも、研究をするということの原点を見つめ直す。
発表終了後の懇親会。ここでもまた現状の研究における社会的な評価の問題。あるいは、政治・行政の中で研究への態度がどのように変化してきているかという話題が中心であった。政治・行政はいつでも現実的であり、「社会でいかに役立つか」という視点で研究内容を判断する。事業仕分けによって、文化・古典芸能などへの理解が十分でなかったことや、スポーツ強化費などへの理解も不十分であったのは、「役立つか」という基準が、大変狭い範囲に限定されているからに他ならない。大学でも志望学生の「実学志向」が言われて久しいが、特に人文科学への社会的評価の低さは、様々な点に波紋を広げている。
しかし、人文科学こそ、「人間」そのものを考える学問。真に豊かな国・社会であれば、この領域にこそ「役立つ」ものが多いということに理解を示すはずではないか。教育の混迷をどうするかといった大きな課題も、姑息な「教育改革」などという絆創膏を貼るような手当ではなく、根本的に「人間が生きる」という原点を探る視点から、考え直すべきではないか。成熟した福祉・教育国家には、こうした懐の深い政策が、自明のこととして根を張り巡らしているように思う。
懇親会終了後は、研究室の若手3人と馴染みの店へ。改めて今後、どのように研究を進めるか、その原点を模索してみた。今を見据えて、逆風であるからこそ、立ち向かっていく気持ちを新たに、自らがどのように舵を切っていったらよいか、深く考える1日であった。
酔眠・・・・・・・・
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