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想像力・視野を拡げよう

2014-05-08
「たえず視野を拡げて
 広い世界を見つめよう」
中学校の恩師の言葉から。

学生相手に授業をしていると、「想像力」の後退を感じることが多くなった。「なった。」と書いたのは、過去に僕が高等学校教員をしていた頃の生徒は、まだ「想像力」があったと回想できるからである。学力レベル云々の問題は度外視して、若者の「想像力」欠如の怖さを感じざるを得ない。

「想像力」の要素として、抽象的概念を提示されてどれだけ思考できるかという点が大変重要であろう。例えば、童謡「春が来た」の歌詞にある「山」は「自然」、「里」は「人間」、そして「野」は「自然」と「人間」の交流領域という”概念の象徴”であると提示して、「想像力」を駆使して、どれほど理解できるかということである。そして単なる「季節到来」の歌詞ではなく、「共生」をテーマにしたものであるという、知的な解釈を施せるかどうかである。

授業内の「雑談」への要求度にもこれは表れる。その反応が過去より鈍くなっている。時折、僕自身が年齢を重ねたので、世代間ギャップがあるからではないかと省みるが、どうもそればかりが原因でもないらしい。ある意味で「雑談」を好まない「真面目さ」が今の学生にはある。むしろシラバスにある内容を忠実に履行し、提示している「力」を微量も欠けることなく「付けてくれる」授業を求めている。まさに「主体的」な「個々の多様な思考」を育むという目標が絵空事になるような実情があるように思われる。

「雑談」とは直接的に無関係に見えて、「想像力」を駆使すればその関係性が見出せるものである。(少なくとも「授業」での雑談はそうだ。)その直接的には見えない関係性を結びつけられるかどうかである。短絡的な「正解主義」や「二項対立的思考」によって、「白か黒」のどちらかに「決める」ことしかできないと「灰色」の中から見出せる概念が言葉にならない。こうした「灰色」の「大海」を好奇心を以て「泳ぐ」ことで初めて、広い世界の「陸地」を発見することができる。これが豊かな人生を生きる為の「知性ある教養」ではなかったのだろうか。

今や携帯(スマホ)の存在が、
むしろ個的視野への狭窄に陥れるのに好都合な環境を創る。
あらためてライブ性ある授業での言葉と声の重要性を思い知る。

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