「自分のペース」こそメダルに値するじゃないか
2014-02-22
ことばでは表現できない感激。美しさ・精度の高さ・集中度。
片手間な分析を許さない技の高み。
視ることでしか伝わらない究極の演技。
それを彼女は「自分のペースですけど、成長できた。」と語った。
「天才少女」と云われて、浅田真央の闘いは始まっていたのだろう。早期に開花したこの逸材にメディアはこぞって過剰な報道をし、その”伸びしろ”に絶大な期待をかけてきた。その外聞と彼女自身の成長は決して合致せず、特に五輪という日本社会における”特殊な舞台”での結果を求められ続けて来たということになるのだろうか。
”特殊な”と言ったのは、この時季になると「メダル・メダル・メダル」という世間の喧騒を、僕自身も甚だ嫌悪しているからだ。期待が掛けられている選手が「メダル」を取れなければ、罵倒するかのような発言が跳梁跋扈する。その一方で、特に注目もされていなかった選手がメダルを取ると、群がるようにメディアがその足跡等を喧伝する。勿論、選手たちは向上するために、個々の生き様を賭して競技に挑んでいるのだろう。だが世間の論調の多くが、「自分のペース」を尊重するような波長がないことが甚だ残念であると感じるのだ。
個々人の胸に手を当てて、そっと考えてみよう。自己の生活や成長は、何よりも「自分なりのペース」が大切な筈だ。決して他人にはわからない、自分なりの境地を必ず持っているものである。単純にジョギングをしていることを想像してみよう。外野からそのペース配分に五月蝿く注文が付けられたならば、どれほど走りにくいかは自明のことだ。怠惰に陥ることなく、高みを目指すという意味において、外部からの抑圧ほど当人を苦しめるものはないだろう。
「自分なりのペース」をなかなか他者は理解できないものだ。だがしかし、それをわかろうとすることこそが「愛情」なのだろう。そこに自己との差を見出した時、こちら側の「自分なりのペース」を省察し歩調を合わせることができるかどうか。決して妥協ではない前進のベクトルがあることを前提に、精緻な「ペース配分」に配慮できるかどうか。スポーツを真に愛するということは、こうした選手側に立った視点をもてるかどうかではないだろうか。
”下等な注文”を許さない美しさに満ちていた。
本人こそが流した自然に溢れ出る涙。
僕たちはわかった気になるだけで、決してその真実の苦闘を知らない。
メダルよりも大切なもの、
それは「自分のペース」でその競技を愛する選手の姿勢ではないか。
浅田真央さんの滑りは、そんな真を僕に教えてくれた。
- 関連記事
-
- 0.001の美学ー体操新時代の破格 (2017/10/10)
- 横綱稀勢の里の優勝に思う (2017/03/27)
- 休まないことと勇気ある撤退 (2017/03/26)
- 「精進」のみー単純化の美徳 (2017/01/27)
- そうか!イタリアだ! (2014/07/15)
- W杯に映る自分史 (2014/06/16)
- パラリンピックをどう観るか (2014/03/02)
- 「自分のペース」こそメダルに値するじゃないか (2014/02/22)
- 攻めの姿勢を本能的に (2014/02/18)
- 五輪では「挑む意志」を観よう (2014/02/17)
- 言うは易し行うは難し (2013/10/07)
- 東京五輪決定・・・世界に注目される7年に何が求められるか (2013/09/09)
- B-STRONG (2013/04/18)
- 箱根駅伝をどう観るか (2013/01/04)
- 虚飾の構造 (2012/10/23)
スポンサーサイト
tag :