最後なのか!大雪の国立競技場
2014-02-09
あの時、彼は悔しさを滲ませながらも、冷静な表情で立ち尽くしていた。
左腕に付けられた蛍光色のキャプテンマーク。
2−1という”惜敗物語”を演出した舞台は、
大雪に見舞われた国立競技場のピッチ上であった。
試合後の慰労会に行かずにはいられなかった。高校サッカーの頂点にあと一歩届かなかった悔しさとその奮闘ぶりに、教員としてせめてもの慰めと讃辞が送りたかった。だがその状況の中で的確な言葉を多勢の前で表現したのは彼であった。教員としてあまりにも無力であることを感じた。それほど彼の冷静さと堅実さは光を放つものがあった。そこで芽生えた確実な僕自身の彼に対する”敬意”は、今となっても確実に継続している。1998年1月8日から・・・
彼の名は中田浩二、現在鹿島アントラーズ所属の現役選手である。2002日韓共催WCの際は、左サイドバックとして活躍し、対ロシア戦0−1で日本が勝利した試合でのアシストを、僕はいつでも映像として脳裏に描くことができる。だが、元来がMFということもあり、代表チームでのポジョン変更に苦悩した時期もあるという。それを乗り越えて自分が出逢ったポジションを冷静に受け止めて成功したという逸話は、小学校「道徳」の教科書に掲載されている。技術のみならず、常にメンタル面での調整や均衡に長けている。そしてまた何より人間としての魅力が一杯な好人物だ。
その中田浩二くんと、幸運にも昨年から再会する機会を得ている。僕の勤務地から至近にある運動公園で、チームがキャンプを張っているからである。昨年2月、そして代表戦で国内試合が中断していた6月、そして再びこの2月。彼がこの地を訪れるたびに競技場まで練習を観に出向いている。練習後のバスに乗り込む僅かな時間であるが、毎回質の高い”思い出話”ができている。それも彼が僕のSNS上の問い掛けに返信をくれて、「練習を観に来て下さい」といった言葉をくれるからだ。やはり彼が高校3年生の時に僕が抱いた”敬意”は誠だったという思いを抱き、教師冥利に尽きるのである。
そんな気持ちを抱くのは、彼ぐらいのプロ選手(日本代表や海外移籍の実績)となれば、たかが高校で教科を担当していた一介の”教師”などは、あまり視野に入れない人物もいるからである。正直なところ、そうした選手(=”教え子”)もいないわけではない。福祉施設に勤務する友人が、その施設の子どもたちがその選手の大ファンなのでサインをいった意向を僕に寄せたことがあった。僕は連絡手段もなく、ファンレター球団窓口の宛先に丁寧な手紙を送ったことがある。だが本人が読んだか否かも不明であるが、何の応答もなかった。まあむしろこの程度の扱いで、仕方ない立場であると思うのだが、その相対化の中でも、中田くんの人柄は絶賛したいほど長けていると繰り返し強調したくなるのである。
「僕が君らを教えていた歳に、(君が)なってしまったね。」
その会話には、僕が高校教員から大学教員となる迂遠した足跡が埋め込まれている。
世界を舞台に活躍できる力を、今思えば僕は高校の〈教室〉で実感できる幸運に出逢った。
”敬意”を払うことのできる教え子を見出すことこそが、「教育の奇跡」なのである。
奇しくもこの日、東京は記録的な大雪。
もはや”あの国立競技場”のピッチが、降雪で白くなるのも最後かもしれない。
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