「お答えになっていますか」でいいのでしょうか?
2014-02-02
研究学会で最近気になること。発表者の質疑応答での一言。
「お答えになっていますか?」
質問者は、説明を求めているのだ。
せめて自分なりの見解・主張を精一杯述べるべきではないか。
教職大学院の課題研究発表会に出席した。僕自身が関わって来た現職教員の先生方の口頭発表、また修士2年生のポスターセッションが午前午後に分かれて開催された。口頭発表では、僕自身も他教科の現職教員の方への質問に立った。概ね現場での経験を活かした前向きな実践研究が発表されていたが、それでもなお”説明”を求めたくなる部分がある。とりわけ現行指導要領で重視されている「言語活動例」が他教科においてどのように実践されているのかは興味深かった。そうこうしていると、やはり「お答えになっていますでしょうか?」という発言を耳にした。
発表者には自己の主張がある筈だ。質問者もその主張を耕すかのような内容を問い掛け、理解を増進したいと願っている。中には発表者以上に、問題の核心を突く質問が出る場合もある。その場で醸成される「対話」を通じて、発表者はより自己の研究の全方位的な立ち位置が把握できて来る筈だ。質問者が投げて来た”ボール”は、せめて相手が捕れる範囲で投げ返すべきであろう。「お答えになっていますか?」という発言は、その”ボール”をとんでもない方向に投げ返してしまっているようだが、どんなものでしょうか?といった意味合いに等しい。客観的には”暴投”であったとしても、投げ返す立場から”暴投”があからさまに宣言されるというのは、議論への態度としてどうもしっくりこない気分にさせられてしまう。
日本人の主張や議論の経験においての貧困さが、こうした面にも露呈しているのであろうか。「質問」そのものを「責められている」かのように受け止めてしまい、ひどい場合には「人格否定」とまで捉えてしまう輩も日本社会には存在する。学校教育の中で行われるディベートへの取り組みなどを含めて、再考すべき点も多いのではないかと思う。僕自身は、大学学部時代の指導教授が、学生の発表に対して徹底的に厳しく批評的な発言を提供してくれていた。その先生の妥協のない「叩き方」は、精神的にもかなり鍛えられた。それ以上に、先生の質問の後には、自分の研究発表の理解がかなり増進しているのが明らかであった。学問内容のみならず、議論の方法を指導教授は教えてくれていたのだ。
「質問」と「対話」に慣れよう。
積極的に主張し意見を言い合う環境を創ろう。
それは確固たる自己を持つということ。
真摯な”ボール”とは何か?
研究発表という”キャッチボールの流儀”として。
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