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「あちら側」から見ていた光景

2014-01-20
立場変われば見方が変わる。
「立場」そのものを変えない人もいる。
変わっても「見方」が変わらない人もいる。
双方向の見方を立体的に立ち上げて多様性を味わいたい。
「受験」に対する僕自身の立ち位置。

首都圏に住んでいたので私立中学受験の経験がある。5年生も終わり頃になると、野球も剣道も止めて日曜日は進学塾に通うようになった。毎週の「日曜テスト」の「結果ランキング」が、水曜日頃には郵送されてくる生活になった。どれだけ1週間で勉強したかということが、「数値」で明確に突きつけられるようになったのだ。野球を慕うことと相俟って憧れの校名があったので挑戦を試みたが、決して「成功」といえる結果は残せなかった。最終的に父の母校に入学することになり、周囲からはある意味で「実力不相応」であると悔やむ声が多々聞かれた。

概ねそんな中学受験体験を経て、6年後には大学受験に挑むことになった。時代相のせいか、その学校のあり方なのか、受験対策はほとんど「施し」がなかったと記憶する。個人的に親しくご指導いただいた国語の先生が、「計画的な学習」のあり方を懇切丁寧に勧めてくれた程度だった。放課後や夏休みなどに受験講習会に行き、当時のラジオ講座で著名であった講師の先生と劇的な出逢いを果たす。その出逢いが僕の大学受験を支え、今でのその著名であった講師の先生とは、交流を続けている。まさに自分自身で受験対策を「開拓」したかのような、ある種「根拠のない自信」を獲得した上で、僕は志望校に合格できた。

高等学校の教員になってからは自分の大学受験体験をふまえて、受験生にあるべき「施し」をしたいという願望が高まった。「志望校は高く」「しかるべき方法で学習すれば必ず実力は伸びる」といったことを生徒たちには”訴える”ようになった。そんなことを考えて行動していたこともあって、何年かすると「進学選抜クラス」の担任に抜擢された。毎週のように生徒向けの「学級通信」を作成し、意識を喚起した。だが、それは最終的に受験を乗り越えるのは「自分自身」なのであり、その苦難を克服してこそ「人生を生きて行く力」が育つのだという”体験的信念”が前提であった。「施し」という語彙は正確ではなく、「意欲喚起」という方が適切かもしれない。手を「施す」のではなく、自分自身で「気づく」ための方策を、教員は提供するべきではないかと思うようになった。

勤務校を”移籍”すると、「進学熱」が断然高かった。それを心のどこかで希望していたがゆえの”移籍”でもあった。「進学実績」をどれだけ高められるかに、学校の命運の全てが託されているような風潮があった。先ほどから「施し」という語彙を使用して来ているのは、この勤務校での経験が大きく影響している。(と今気づいた。気づいてしまったので、)辞書を繰ってみると「弱い立場にある者に無料で与える。」(『新明解国語辞典第6版』・「無料で」というのが『新明解』らしいが)とある。大学受験に対する「弱い立場にある者」に対して、手取り足取り懇切丁寧に「(上から)教え込む」のが受験指導であるという方針を身を以て体験した。

「受験情報の分析はこうだ」「今年の入試動向はこうだ」「勉強はこのようにやるべきだ」「講習で時間をかけて全てをカバーするように教え込む」といった「指導」が、本意であるという風潮があった。「自分自身で気づく」という僕の”信念”を何度か披瀝したことがあるが、「うちの生徒たちは(大学受験)に対して弱い立場にある。(ので自分自身では気づくことができない。)」という反論を何度も喰らった。そんな葛藤の中で、比較的「進学選抜」といった部類の学級担任を繰り返し担当させて貰うという人事的な「施し」は受けた。それでも葛藤の線上を彷徨していたがゆえに、理念と行動が合致しなくなるときもあった。その象徴的な「行動」が、センター試験の会場校の正門まで、学年の生徒たちを激励に行くといった「施し」であった。その数日前には、センター試験は「このような点に注意すべきだ」という講話を、僕自身が全員に話している。

いま「受験させる側」から、「受け容れる側」になった。今年もセンター試験が実施されたが、この時点の「実力」をどれだけ入学後に「活用」させようかということなどを考えている。少なくとも、この2日間のみを乗り切るためだけに「効率的」「効果的」を最優先に学習してきたのではないということを、まずは僕の前に4月に姿を現す”新入生”には願いたい。自宅近所で、高校がチャーターしたバスに乗って、試験会場に向かう受験生たちを見た。はてまた寒い中を自転車で試験会場へ向かう坂道を登る受験生もいた。バス内で参考書を見ている者と、自転車で身体を温めている者と、どちらが「実力」を発揮できるのだろうか?などという他愛もないことをついつい考えてしまう立場になった。

これを覚書として、
「受け容れる側」になった僕がすべきことは何だろうか?
受験生・高校教員・大学教員と自らの立場が変化してきた。
たぶん誰しもが「今のまま」でいいとは思えなくとも、
回転し始めている輪の中で、大きくは変革できないでいるのだろう。
はたして「受験」とは何なのだろうか?
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