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ことばを「自分のもの」にできるのか?

2014-01-05
再び手帳にあったことばから。
「赤ちゃんは、人の言葉を聞いて、だんだん覚えて行く。
 つまりはじめは、言葉は完全に他人のものだった。
 それを自分のものにしていくことが、
 人間が成長していく過程だと、ぼくは思っています。」
 (『谷川俊太郎、詩人の命がけ。』より)

米国にいる友人とSkypeを利用して、新年のことばを交わした。昨年、出産をして生後5カ月ほどの赤ちゃんがいる。夜にもかかわらずまだ寝付いていない様子で、時折抱かれて画面に登場する。ついついネット回線を通じて、僕も赤ちゃんを”あやす”言動をしてみる。すると動作に対する反応が主ではあるが、赤ちゃんが何度も微笑んだ。友人曰く、「何らかのキャラクターVTRでも、観ている気になっているみたい。」

無機質なPC画面により伝えることばと、しぐさ・身振り手振りなどによって、どの程度のコミュニケーションが可能なのだろうか。赤ちゃんの反応は、その可能性を大人の反応以上に素朴に反映しているように感じられた。もっとも友人曰く、「そんなにふざけてあやす人が、こちらにはいない。」という「稀少価値」が大きいようではある。

「言葉」は元来、「他人」のものである。創作的であると頑張ってみても、せいぜいその組み合わせの”妙”程度の要素でしか独自性を発揮できない。それまでの歴史や文化的背景を背負っている語彙を、どれだけ咀嚼して「自分のもの」にするかという点が問題なのである。その「気付き」の繰り返しこそが、「成長」ということなのであろう。

そして自分自身という存在もまた、当初は「自分のもの」にはなっていない。赤ちゃんの表情を見ていてそう思った。”笑う”ということは、ある程度の脳反応が起こっているのだが、赤ちゃんにとっては自覚的であるはずはない。だが”大人”としては、「笑わせよう」という意図を持って一生懸命に”ふざけて”いる。その意図に、人として応えるということは、自覚的でないにしてもある種のコミュニケーションが成立していると言えなくもない。だがそれ自体が、”大人”の独りよがりでもある。

そう考えると結構”大人”同士でも、ことばを相互に「自分のもの」にしていない場合が多いのではないだろうか。他人のことばに仮託して架空の自己を語っているのを、受け止める側も勝手な判断材料で「自分のもの」にした”気になっている”のではないだろうか。「成長」なき不毛な人間関係が、実は社会の中には氾濫しているのではないか。精緻にことばやコミュニケーションについて熟考すると、ついついこのような偏屈な思いを抱くことにもなる。

ことばを「自分のもの」にできるのか?
それは、どこか他人の「心」がわからないことと共通する。
どんなにことばを尽くしても「心」にはならないが、
それを「心」に近いものではないかと思い込み、獲得した気になる。
大人は、赤ちゃんの素朴な微笑みに学ぶべきなのかもしれない。
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