映画「かぐや姫の物語」雑感
2013-12-29
「今は昔、竹取翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。
名をば、さぬきの造となむいひける。
その竹の中に、もと光る竹なむひとすぢありける。
あやしがりてよりて見るに、筒の中光りたり。
それを見れば三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。」
(『竹取物語』冒頭文より)
映画は、引用した『竹取物語』原文冒頭の語りと、映像がリンクする場面から始まった。今や小学校5年生の教科書に掲載されており、多くの小学生が暗誦までできる冒頭文である。原文であるから解釈が難解であるわけではなく、自然と物語世界に入り込む”語り”が映画でも「機能」していたと見てよいだろう。”昔物語り”冒頭文が誘引する伝奇的世界への扉が、声と映像によって開かれる思いがした。
竹取翁が生業を立てていたのは、「野山」のある鄙の地である。急成長し続ける「かぐや姫」は、「たけのこ」と呼ばれ自然の中で生活する子どもたちとともに戯れ遊ぶ。「鳥・虫・獣」にふれあい、草木や花が季節ごとに”うつろふ”ことを実感し、人間も”生き物”としてこの地球(ほし)に生きている「手応え」を感じ取る。だが、竹から「黄金(こがね)」を発見する翁は、この子を都で「高貴な姫」として育てようと決意する。このあたりに監督・脚本の高畑勲ならではの、「都鄙対照物語」が仕組まれて、物語は都へ舞台を移し求婚譚が展開することになる。
5人貴公子の求婚は、原典においても著名であるが、あらためて「貴公子」とは何か?と考えさせられる。財力や家柄に加えて、その社会に沿った姑息な処世術のみを身につけ、「この世のものとは思えない」ほどの「美しさ」を宿す「かぐや姫」を「得よう」とする。その権力に依存しきった男たちの愚かさを、すべて「かぐや姫」は露見させ暴いて行く。もちろん「わたくしから求婚されて喜ばない女はいるはずはない。」などという帝(みかど)の申し出、いや「夜這い」も拒絶する「かぐや姫」の気丈さが描かれている。
だが「かぐや姫」はひとり苦悩する。自分のせいで多くの人々が、不幸になったと。そして「高貴」でいることが、人間らしく生きることから隔絶した「嘘」の世界であることを悟って行く。そしてまた鄙の地で自由奔放に生を躍動させる自身の幻想に浸る。「都鄙対照」は、「財力・権力」対「自然・愛情」の対比となるが、「生きる手応え」を実感してくにはどうしたらよいかという人間としての命題を、この映画は僕たちに突きつけてくる。
「まつとし聞かばいま帰り来む」
百人一首16番「在原行平」歌の下句である。
「立ち別れ」と「帰り来む」という人情の彷徨。
月の世界に帰れば、人間界でのすべての記憶を失うという。
「生きる手応え」あらば、失わないものもあるやもしれぬ。
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