いま考えておくべき「表現者の自由」
2013-12-06
ことばを通じて表現する尊さ。〈話す〉〈書く〉ことの意味は手段のみならず、
基本的人権を保障するものである。
制約なき言論こそ成熟した社会の基底を支える。
それが表現教育が目指して来た不断の理念ではないのか。
今週水曜日の大学3年生対象授業で、〈話す 聞く〉教育史を概観した。その骨子を紹介すると次のようになる。戦前の「国民学校国語」では、「醇正なる国語」が求められ「醇正な語彙・語法」や「醇正な発音」が教育されていた。「国語」がまさに「国」語として、一つの限定された観念を基準としての「共通語」を目指していたわけである。とりわけ明治維新以後の、「共通語教育」の必要性とは別次元で、ある意味の「醇正」が強要されたことで何が産み出されたかは、我々は既に知っているはずだ。
戦後、占領下で経験主義的教育が導入され、呪縛の拘束から解き放たれた〈話す 聞く〉が教育された時期もあった。しかし昭和20年代後半になると「文字偏重傾向」が強まり、次第に〈話す 聞く〉が軽視されることになる。それでもなお「対話」の重要性を説いた国語教育研究者の存在が根底にあり、「言語内条件」と同時に「言語外条件」も育てる教育が求められるといった論が展開された。「語彙・語法・発音」が「内」とすれば、ことばによる「思考」を「外」の条件と呼ぶわけである。まさに〈話す 聞く〉が言論を育て、民主主義の成熟の為に不可欠なものであるという方向性があったはずなのだ。
〈話す 聞く〉に加え〈書く〉ことも含めて、
僕たちの「表現」は果たして大丈夫であろうか?
「しっかりした手立てを踏んで話し合いをしましょう」と小学校でも教えている。
偏狭な危惧による熟議なき暴走が、真の危惧をもたらすであろう。
僕たちは決して曲がりたくない歴史の岐路に立たされている。
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