認知文法・異文化コミュニケーションと教育
2013-12-01
同じ図柄を見る。鳥に見えるか兎に見えるか。
視点を変えるという作用を脳内に起こす。
同時に両者を見ることはできない。
教育そのものにもこうした発想の応用が望まれる。
一昨日の流れに引き続き、大学院「言語教育系内容開発研究」の共同担当者である先生が主催する「英語教育研究会」に参加した。他大学から二名の講師の先生をお迎えし、学生から社会人まで幅広い聴講者が参加する盛会となった。そこで扱われた「認知文法と異文化コミュンケーション」の発表に大変興味が惹かれた。
談話として「意味は通じるが、母語話者はそうは言わない」という表現がある。既知の語彙を文法により組み立てて、状況に合わせて作文し発話する。僕なども米国などへ行くと、頻繁に行う脳内作業である。だが、よく英語母語話者に匹敵する力を持つ友人から「今の表現は馴染まない。こういうように言い換えたらよい。」という指摘を受ける。それは、言語が背負っている「異文化」への理解が不十分であることに起因している場合が多い。
日本語の場合の、主語の不明瞭さ。「様態」と「移動」をどのように表現するかに言語としての特徴が表出する。外国語学習とは元来、この「言語上異文化理解」こそ重要な要因であるはずだが、日本の学校教育の中では往々にして疎かにされてきた分野であると気付かされる。単語を始めとする知識の詰め込みと定着を目標とするがゆえに、暗記こそ学習の主眼だという錯覚に陥り、目前・目前の入試を乗り越えるためだけの英語教育が為されている。様々な改革が唱えられてはいるが、この状況は執拗に〈学校〉に絡み付いてなかなか離れない。
国語教育もまた同じ。〈学校読解〉〈学校作文〉〈学校発話・聴解〉が規範的に〈教室〉では通行する。学習者が個々の意欲で「読み取りたい」「表現したい」「会話したい」という状況にはならない。内容も〈学校〉という制度の枠組から逸脱することは、暗黙のうちに許されない。漢字の暗記、文型に沿った表現、型に嵌ったスピーチが展開し、文化的背景を思考する柔軟な発想を育んでいない。
参加した学生と講師の先生が対話した。
「異文化を英語教育に持ち込むことをどう考えますか?」
「中学生には負担になると思います。」
後方から聴いていた僕はこう考えた。
「教育」そのものに対して「視点の移動」を行うべきだ、と。
「異文化」の発想を身につけた方が、英語学習は負担が軽減し好転するはずだ。
意図せず、
日本の外国語教育の弱点が浮き彫りとなる研究会となった。
ということに気付く「対話」が醸成された、アカデミックな場であった。
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