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「自分なりの考え」を持つべきなのに

2013-11-22
読んだり意見を聴いたりして、
情報などを読み取った上で、
「自分なりの考え」を持とう、
という学習目標がある。
果たして「自分なり」とは何か?

大学院講義で行われた小学校の「模擬授業」で話題になった。物語を読んで「自分なりの考えを持とう」とはどういうことかと。誤読のない範囲で物語を読み取り、そこから自己の体験や思考に即した考えを持つことであると、理屈の上で語るのはある意味で容易だ。だが、指導者はたいてい一定の読み方・考え方を目指して授業を行っているのでは、という素朴な疑問が受講者から提出された。

個々の多様な思考を大切にし、判断力や想像力も育むというのが「国語」という教科の目標でもある。物語の情報を如何様にも捉える自由は束縛されず、「答え」は一つではないという個の重視こそが重要であるというのが、長年の国語教育改革の流れである。一定の情報に対して個別な意見を持つことこそ、急速に垣根が撤廃されつつある国際社会に生きる市民としての適切な立ち位置である。

「理解」と「表現」を伴ってこそ、「思考力・判断力・想像力」が涵養される。市民は個々に「理解」し「表現」する基本的な権利がある。何が「真実」であるかを知り、深層まで理解し、「自分なり」の考えを「表現」してこそ熟成した社会が構成される。例えば、読むべき「物語」が一定の恣意的な都合のいい解釈で、選別されてしまうことは国際競争力を高めようとする教育にまったく適さないものであることは容易に判断できる。

この2年と8カ月の間、何が「真実」なのかという情報の信憑性が大きく揺らいだ。懐疑的に「自分なり」の考え方を持つ人間が、「異常」だと忌避され非難されることも多くなった。情報公開に対して真摯だと思われた政権は、公約を実行は愚か頓挫し、その傷口が化膿するかのように、今や情報公開に対して否定的な流れが跳梁跋扈している。「裸の王様」の物語を、「王が裸であるかは公開できない」と王宮内に閉じ込め、「裸ではない」という解釈をする者のみで国の方向性を決定して行く”流れ”とでも言ったらいいだろうか。これは、「自分なりの思考力・判断力・想像力」を育むはずの教育そのものの否定にもなりかねない。いつの時代も「王様は裸だ」と言える子どもがいてこそ、健全な社会が保たれるはずだ。

国際的に豊かな視野を持つ市民による成熟した社会。
経済的な優位よりもこの国が目指すべきところ。
市民として、適切な「ことば」による「自分なり」の考えを持つべきである。
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