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映像的記憶法

2013-11-19
「今のクラス何人参加していましたか?」
ジムのトレーナーさんに問われた。
「え〜と、1・2・・・・6人だね、確か。」
そう僕は答えた。
その時、映像的に直近の過去を記憶していることに気付いた。

幼少の頃から、出来事の記憶が鮮明に残る性分だ。その割には、九九などの記憶は甚だ苦手でもあった。出来事が物語的に記憶されるというのであろうか。両親にどこかに連れて行ってもらって転んだとか、玩具を買ってもらって意気揚揚であったとか、そんな映像の一部が記憶の襞に刻まれている。思い出を自己の物語として残したいという気持ちが、強く作用するたちなのかもしれない。

どうやらジムでは、スタジオクラスに参加した人数を記録するらしい。レッスンに夢中で思わず忘れてしまったのか、トレーナーさんが僕に問い掛けた。その時、僕は頭の中に映像を再生し、その参加人数を数えることができた。もちろん6人程度であったから為せる技なのだと思うのであるが。それにしても、自分自身がこのような方法で記憶を刻んでいるということが自覚できる出来事であった。

最近はスマホの普及により、その場で即座に写真に残す人々を多く見掛ける。飲食店での料理などはその典型であるが、果たして自身の味覚による「味わい」の記憶と、写真とどちらが鮮明に優先的に残るのかと思うこともある。学生などは授業の板書をスマホで撮影することも。自らがペンでノートに刻むのとは大きな差があるのではないだろうか。その行為を禁止する如何の問題というよりも、人間として「記憶の退化」に繋がりはしないだろうかと、新世紀の技術発展の延長上を憂えてしまうこともある。

たぶん、記憶も訓練と習慣次第なのだと思う。文学好きな僕の場合は、自己の周辺で起こる現実も「物語化」して解釈することが多い。それだけに妙にロマンティックに、いや妄想的に解釈することも多々ある。だが、その「解釈」の段階で、単純な時系列から因果律を働かせることも可能になる。過去の瞬間的な映像が、自己の中で再び立体感を持つ瞬間が訪れるのである。どうやらジムのトレーナーさんも、僕がこのような記憶装置を所有していることを見抜いているらしい。

記憶法も自己開拓の一つではないか。
特に教員などという職業の場合は、これが有用だ。
こうして書いていると過去の教室の光景が蘇る。
卒業生に会って名前はともかく顔は忘れ難いものである。
人は文字よりも印象で人と繋がっているのかもしれない。
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