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「国語」と「道徳」の境界線

2013-11-09
「国語」で何を学習するか?
「国語」的な「道徳」授業とは?
その境界線をどこに引けばよいか。
従来、「国語」が「道徳」的でもある。
いずれも「教え込む」性質のものではない。

ゼミの時間に、教育実習での反省や疑問に基づいた話題提供をもとにゼミ生と対話している。この日で5人全員が発表を終えた。毎回、「国語教育」の上で深く考えるべき問題点が提供されている。総括的に述べるならば、「国語」で何を教えるのか?ということ自体が大きな課題なのだと気付かされる。

学生たちは実習中に「道徳」の授業も担当する。すると「国語」を専攻する学生の授業は、自ずと「国語的」道徳のようだと周囲の他の学生の眼には映るらしい。では一体「国語的」とは何なのだろうか?教材文のことばの背後に潜む、言語知識の情報に着目しそこから悟るべき内容を”読み取ろう”とする、とでも言えばよいだろうか。

そして「国語」にも「道徳的」要素が満ち溢れている。小説を読み取る際に、登場人物の心情は「学校規範」的内容の線で考えるべきである。少なくとも試験で高得点を上げたければ、内心に反してでもその「規範」に従うべきである。信頼・親身・改心等々、「国語」の「答え」は「道徳」で気付く内容に依存して”創られる”。

言語知識・技術のみならず、「思考・判断・想像」の力を伸ばそうというのが「国語」という教科の目標でもある。真っ向からその目標を見据えるならば、「道徳」の範疇から解放されてもよい筈だ。小説の読み方は、個人個人の中に創造され、それを他者と交流した対話の中から、更なる意味付けや価値観に気付いて行く。絶対的な「正解」を求めるのではなく、相対的な自己の客観視の上に立ち、「思考・判断・想像」を伸ばすのである。

そう考えると、やはり「国語」は「道徳」的なのかもしれない。いや、我々が「道徳」ということばに雁字搦めにされている可能性もある。柔軟に開放的に「世界市民」として、個の豊かな生き方を模索する。「道徳」とは、元来そんな人間らしい生き方の創造なのではないだろうか。

教育実習という貴重な体験。
そこで得た課題による対話。
僕を含めた6人の中に新たなる意味付けができた。
ゼミそのものが、各自の豊かな創造の場でありたい。
少なくとも、思考は矮小な世界に安住してはならない。
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