fc2ブログ

「対話」について”対話”をし続ける

2013-10-28
学びとは、教育とは何か?
普遍的な問いであるが、
常にこれを自問自答し続ける必要がある。
研究学会の随所で語られた「対話」ということば。
そこから「自分」の中のテーマを語る創造が求められる。

全国大学国語教育学会広島大会に2日間参加した。キャンパス内の樹木も紅葉が始まりつつあり秋の気配が漂う中、多数の自由研究発表、そしてシンポジウム・課題研究・テーブルラウンドからの収穫は大きかった。即座に授業で紹介し応用したい内容から、今後じっくり自分自身の研究課題として探究を深めたいものまで多様であった。

その様々に発信された内容を通底する鍵となる語彙は、「対話」である。課題研究として今回の大会から継続的に検討される「国語科カリキュラムの再検討」においても、コーディネーターである広島大学・山元隆春氏より提起された趣旨説明には出発点として次のような考え方が示されていた。

「教育というものは、子どもたちに、自分たちの生活と生きている世界についての文化的な対話への入口を提供するものだ。」(Applebee,1996,p39)

NY州立大・教科教育学者Arthur Applebee氏による、カリキュラムの現状を扱う文章の一節であるという。「カリキュラムには「対話領域」が必要であり、その領域での様々な対話こそがカリキュラムを生きたものにする。」(山元氏趣旨説明資料より引用)のであり、「対話としてのカリキュラム(curriculum as conversation)」をApplebee氏は提唱しているという。よってカリキュラムを作成し生きた学びを創り上げるには、「相互関係性(interconnectedness)」が不可欠であるという考え方が重要となる。この趣旨に基づき登壇者からは、「自立・恊働による学び」「対話によって修正される学び」「文章を理解するために必要な能力の系統化」などが提起された。

午後のテーブルラウンド「言語教育と生きること」は、実に刺激的な内容に満ちた議論が為された。国語教育のみならず、英語教育・特別支援教育・日本語教育・教育人類学など多様な討論者による発表と議論は、まさに「対話」ライブであり、僕自身のテーマと共鳴し新たなる意味・価値付けが為された。「対話」とは換言すれば、「自己と他者との関係性に気付くこと」である。その気付きから新たな価値観を創出する。どのような「社会」に接しても「関係性」は必ず生じ、「誤解」も発生する。それゆえに「ことば」がある、というわけだ。この議論の中でも、僕自身が大学院時代に「日本語教育入門」という履修科目担当であった細川英雄氏(言語文化教育研究所代表・早稲田大学名誉教授)の提唱する「ことばの市民という概念の構築」には実に刺激的な示唆を受けた。覚書として細川氏の資料からその概念に関する説明部分を引用しておこう。

 「行為者一人一人が、一個の言語活動主体として、それぞれの社会をどのように構成で   
  きるのかという課題と向き合うこと。」

 「人はことばで考え、ことばによって他者との対話し、ことばによって社会を形成ーこ 
  とばの活動なくして、市民にはなり得ない。」

 「ことばは、言語学で区切られた境界だけではないー60億のことばがあると考えるべ
  き。」

 「「語るべき」何かを持つことー「語るべき何か」とは、自分にしかないもの、自分の
  過去・現在・未来を結ぶ「何か」ーその何かこそ、自分のテーマ誌となる」


このテーブルラウンドに参加して、こうした専門領域の越境を常識として遂行していく必要性を強く感じる。自己の小さな殻に閉じこもり閉鎖的自己完結をしていては、研究も、ましてや教育は成立しない時代となった。研究者自身が”蛸壺”から積極的に大海に飛び出して、多様な「対話」という波から刺激を受け、自己を創造し続ける必要があるだろう。僕自身は、帰りの交通機関の接続を考慮し、議論の最終段階でテーブルラウンドの席を一足先に立たねばならなかったのが惜しまれる。

この研究学会に参加して、改めて考えた。
僕自身の研究の立ち位置そのものが「対話」である。
「国語教育・音声表現・和漢比較文学」
まさにハイブリッドであるかもしれないが、
それを通常のこととして邁進することに意義がある、
今回の「対話」から生じた創造的意識である。
関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/1443-d9596bfa

<< topページへこのページの先頭へ >>