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人としての年輪

2013-09-21
樹木は、その年輪を見ればその成長が見える。
だが人はどこを見れば過去の足跡が見えるのだろうか?
あくまで自己の記憶の中にそれはあるのか。
どんな過去でも厳然と受け容れ、
それを成長と見る人としての年輪。

ある知人、いやもう親友と呼ぶべき方と深夜に及んで話した。お互いの”今”はどうであるかと。過去の様々な紆余曲折、喜怒哀楽のすべて、様々な人との関係性、そして今舵を向ける方向性等々・・・。それほど具体的な話をしている訳ではないのに、なぜか頷ける点がたくさんあった。

人は誰しも消すことができない過去がある。記憶の中で上手に己で意図的に操作し、刻まれた瑕疵を稀釈することはできる。それでもなお、”現実”としての過去は、消え去ることなく存在し続ける。だが、大切なのはそれを引き摺らない潔さではないか。刻まれた年輪は如何ともし難いのであるから。

人は産まれたときから、両親という一定の「枠」の中に存在している。だが、その「枠」は様々に変化する可能性がある。そして成長とともに、その「枠」から離脱すべきときが来る。するとまた自ら多様な「枠」を作り出し、その中で生きて行く。学校も仕事も居住場所も結婚など諸々、何らかの縁で結ばれた「枠」に入り込み自己を醸成し、はてまた時が来ればそこから離脱することもある。

年輪を意識したとしても、人は”今”を生き続けるしかない。何かを見て聞いて嗅いで味わい触れて、そして思考する”今”。ただただその自己を受け容れていくしかない。どうせ受け容れて行くならば、潔く今自己が存在していることに感謝して、今日の一歩を標せばよいのだろう。今日まで歩んだ一歩一歩に、後悔の念を抱いて躊躇するよりも、思いっきり”今”の歩みを大切にしよう。

思考・感情があるからこそ揺れる人としての年輪。
謙虚に山の斜面に立ち並ぶ樹木を見て思うことがある。
樹木の放つ芳香が漂う環境に戻っての感情。
樹木にも節目があるならば、
人にもまた節目がある。
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