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「邂逅」の美学

2013-09-12
心にある様々な懸念。
ああでもないこうでもないと考え悩む。
そこで思い掛けない人と出逢う。
一気にその懸念が解きほぐされることがある。
「邂逅」の美学。

一本の電話から、その日の行動が大きく変わることもある。予定は大幅に変更され、実行しようと思っていたことができなくなる。あれこれと考えても仕方ないので、次の予定を組み直す。従来組んでいたものの中で、自ずと犠牲になる予定もあるが、守りたい予定もある。そこで自己の価値観が試される。

思い掛けない出逢いから、一気に道が拓けるときがある。予想もしない場面で、予想もしないものが提供され、それが心に潤いを与え好展開していく。不思議なもので、そうした手合いのものを提供してくれる方とは、数奇な縁で結ばれていると感じることもある。思い掛けない路上で、その刹那しかない絶妙なタイミングで顔を偶然合わせるなど、「縁」という概念でしか説明できない、何らかの糸で結びついているような間柄。

「邂逅」は、小欄の「カテゴリ」にも採用している。元来、「邂」は「とける」に「しんにょう」であるから、何事かが「解けて」から「先に(事態が)すすむ」という語義であろう。手元の漢和辞典(『新字源 改訂新版』学研)に拠れば、「運よく懸念がとけて喜ぶ。しこりがとける。」とある。また、「逅」は、まさに「出あう。両方がぱったり出くわす。」という語義。『詩経』の「鄭風・野有蔓草」には、「邂逅して、相ひ遇はば、我が願ひに適はん。」の一節があり従前の漢和辞典に用例として引かれている。

昨今は、どんな種類のメールでも、スマホでチェックできるようになったため、実に意外な場所で、予想外の内容のメールに出会うこともある。そこから様々な思いが巡り、行動を活発にさせたり、はてまた制限したりもする。中には「邂逅」が「邂逅」を呼び込むような展開になる場合も。相互に潤滑油が流れているかの如く、順調にことが運ぶこともあるものだ。

「邂逅」はまったく運命であるのだろうか?
否、「邂逅」を「邂逅」にさせるのは、自己の感性ではないのか。
日々準備を怠らず、いつどんな「邂逅」があっても、
乗れるようにしておく必要があるだろう
もちろん”負の遭遇”への対応も準備ができていれば狼狽える必要もない。

「邂逅」・・・人生は不思議に満ちている。
ゆえに人生は愉悦なのである。
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