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人類としての実感

2010-02-10

9日(火)司馬遼太郎『空海の風景』(中公文庫)に次のような一節が見える。

  「空海はあるいは、言葉に出して、
   −朝廷も国家もくだらない。
   といったかもしれない。
   空海はすでに、人間とか人類というものに共通な原理を知った。空海が会得した原理 には、王も民もなく、さらにはかれは長安で人類というものは多くの民族にわかれているということを目で見て知ったが、
   (中略)
   すでに人類としての実感の中にいる以上、天皇といえどもとくに尊ぶ気になれず、まして天皇をとりまく朝廷などというちまちました拵え物など、それを懼れねばならぬと自分に言いきかす気持さえ起らない様子なのである。」

   「空海は、ながい日本の歴史のなかで、国家や民族という瑣々たる(空海のすきな用語のひとつである)特殊性から抜け出して、人間もしくは人類という普遍的世界に入りえた数すくないひとりであったといえる。」


『空海の風景を旅する』(中公文庫)を読み始めて出会った引用文であるが、この部分を何度も読み返し、あらためて空海という人物の視野の広さと偉大さに圧倒された。平安という中央集権国家の中にあって、このような普遍性に目を向けた空海という人物には、驚嘆の眼差しを向けるしかない「瑣々たる」己がいることを思い知ったのだ。

空海というと、弘法大師として「大師信仰」で有名である。厄除などの祈願で東京でも西新井大師が著名である。幼少時より祈願する対象として意識してきたが、ある時は文化人としての書について追究したこともあり、またその著作たる漢文に目を向けたこともある。その度ごとに、単に信仰対象ではなく、人物としての偉大さが格段なところに位置することが認識された。

 今回は、空海のルーツである四国の旅を計画しているので、あらためてその人物や信仰との関係を学んでみようと考えたのである。そこで出会った司馬遼太郎の表現。まさに21世紀となり「人類」を意識する時代になった。それは衛星写真や宇宙からの交信などが、Web上で簡単に閲覧できる時代であるからこそ、得られた感覚だろうと思っていた。しかし遥か1200年もの昔に、「国家や民族という瑣々たる」枠を越境し、「普遍的世界」を意識していた人物。その名に表れたように、「空」と「海」という世界構成の要素へ限りなく近づこうとした大人物。その深層に少しでも近づきたいという思いで、四国への旅を夢想している。

 時に、バンクーバーの冬季五輪も開幕する。「国家」がスポーツを通して顔を覗かせる時であるが、そのあり方や報道なども含めて、もはや「人類のイベント」という、広大な視野で観なければ、空海に到底及ばないことになる。

 今月において考えねばならないテーマは、こんなところにあったという自覚を持った1日。
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