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季節とスポーツの間柄

2010-02-09

8日(月)新しい週の仕事が始まる。重苦しいわけでもなく、されど気分よいというわけでもなく。取り立てて何もないというような気持になるのがこの時季。これこそ、2月が何となく過ぎていく原因だ。視野を様々な面に向けて、活性化させ2月の意味を見出したい。生活は特別な意味を見出そうとすると、息切れもするし、建前に疲れる場合もある。しかし、古来から人間は、それぞれの時間に意味づけをして生きて来た筈である。

 前日のTwitterでも、「こんなに風が吹く意味がわからん」という知人のつぶやきを発見。思わず「春が近づいたということでしょうか」とつぶやき返し。暦の上では立春を過ぎたが、未だ待望される春であるという意味を見出した。古歌でも立春のころは、「未だ凍てつく山中の氷を、東風が解く」と詠むのである。しかも、その山中の氷は、前年の夏あたりに、渓谷を訪れた際に、手ですくった水が秋と冬を経て凍っているというもの。立春の日の風は、季節の逡巡を一手に引き受け保管している氷を、次の季節に手渡す媒介となるのだ。そんな意味づけを人間が恣意的に行う。実際は単なる地球自然の歩みの瞬きほどの出来事に過ぎないものを。この和歌、平安時代の紀貫之の作である。

  袖ひぢてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風や解くらむ(古今和歌集)



 午後になり再びTwitterに目をやる。「日本で冬の国民的スポーツは何か?」という、他の知人のつぶやき。「駅伝?マラソン?」果てまた「ラグビー?」。それはちょうどこの日にアメリカでは、スーパーボウルが行われているところであったからだ。知人は、常に世界在住の人々とつぶやき合っている。そして更には宇宙へも目を向ける。なので、アメリカが熱狂するこのイベントと同時進行で、日本の「冬」を考えていたようである。

 話題は「季語になるような日本の冬のスポーツは見当たらない」ということになった。文化的には、前述した和歌の時代から江戸期の俳諧を経て今に至るまで、季節・季語には敏感で繊細な国民であるはずだ。どうやらこれは、「冬」という季節の持つ日本的意味と関連しそうである。

 欧米などでは主に学校などに於いて、年度構成が「秋(9月)始まり春(5月)終わり」である。しかし、日本では国際化の中で9月に合わせようという議論もないことはないが、未だ「春(4月)始まり冬(2月)終わり」が根強く定着している。これを容易に国際規準に変更できないのは、単に制度上の問題ではなく、文化的な背景という問題が大きいのではないかと思っている。要するに、四季の巡行を人生に喩え、梅香り桜咲く春は始まりの季節であり、紅葉し枯れて散りゆく秋には、終息していく時季として見ざるを得ないという観念が血肉化しているのではないか。

 それゆえに、春に開幕し秋に有終の美を迎える「野球」が、国民的スポーツとして定着しやすかったのではないかと考えられはしないか。冬のスポーツは、もっぱら待望の春に向かい「駆け抜ける」マラソンか。特に組織的な連繋を旨とする「駅伝」に人気があるのも、日本人的な文化の連鎖性と組織性に起因しているのではないだろうか。

 巡り往く季節の中で生きてきた日本文化。その伝統は薄れてきたように見えるが、形を変えて、我々の生活の中に棲息しているのであると発見する。
 
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