「勝手」のススメ
2013-08-06
勝手な生き方、自分勝手な。
それはいけないことなのか?
一度しかない自分の人生。
勝手に生きなくてどうするのだろうか。
実に「勝手に」生きて来たと僕自身は思う。好きなスポーツに興じ、好きな大学に進み、好きな職業に就いて、好きな人といて、好きなように移籍してきた。そのくせ、他者の「自分勝手」には人一倍敏感であるようにも思う。それは僕自身の信念として「勝手」が2種類あるように捉えているからだろう。
手元の辞書(例によって敢えて『新明解第6版』)によれば、
「[普通の場合必要とされる断りを省略したり 許可を得なかったり などして]自分ひとりの判断で行動する様子。」[当人以外の者が、それを好ましくない行動ととらえて言うことが多い]」
とある。
自分の生き方を貫く際に、「断り」や「許可」がいるのであろうか。仮にいるとすれば、誰に「断り」、「許可」を得るというのか。そんなに個人の生き方を左右できる「聖人」のような人物がいるのだろうか。他者に遠慮して自分なりの生き方ができないのなら、その人生は誰のものなのであろうか。個人が生きる尊厳とは、その個人が選択すべきではないだろうか。ただし、その折々で多くの人々の意見を聴ける耳を持っていることが絶対条件であろう。反する意見を聴いた上でも、自分が貫くべきと考える芯が一本通っているか。そこが何よりも肝要であるように思う。
辞書の注記には「当人以外の者が、それを好ましくない行動ととらえて・・・」とある。あまりに独善に陥った行動、意見にまったく耳を傾けない閉鎖性を感じると、批判的に他者を「勝手だ」と捉えることになる。耳目を周囲に開き、自分の中のもう一人の自分が己を見つめることを忘れない。何事かを貫くことと、「自分勝手」には大きな開きがあるのではないか。
だが時に、自分で自分を「勝手だ」と攻める場合もある。他者や周囲の空気感を気にし過ぎて、自らが疲弊する。自分以外を配慮することばかりに囚われて、己の前進が阻まれる。社会全体がこうした抑圧的・同調的傾向を帯びている昨今、妥当でもない「勝手な」という批判を気にし過ぎて、雁字搦めになっている人々も多いのではないだろうか。
学校空間では、「勝手」は道徳的に「いけないこと」として教わる。だが必要以上の協調性を超えて同調性を求めるのは、個人の動きを縛ることになるのではないか。〈教室〉で「異質」が非難され、根拠のない多数決に同調するのをよしとするのは、子どもの可能性を摘んでしまう可能性も大きい。ゆえに「勝手」という批判は、十分に気をつけて行うべきであるように思う。
実は、「勝手」はいいことなのだ。
どれだけ自らを大切にしているかということ。
自らを大切にするということは、他者を大切にするということでもある。
批判の枠の埒外において、
自分なりの人生を歩むべきではないだろうか。
研究者は、たぶん「勝手」でなくてはできない。
これからも僕にしか歩めない道を進んで行く。
とりとめもない定義だが、「勝手」について深く考えたいことがあったゆえに記す。
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