fc2ブログ

発言後の「笑い」気になりませんか?

2010-02-07

6日(土)言語とはことばそのものだけではなく、発言の主が発する言語外表現も含めて、有用なコミュニケーションの具である。小欄であれば、文字言語でしか表現できないが(勿論、写真を投稿すれば拡大するが、敢えてそれはしない。現段階ではする必要も感じない)対人コミュニケーションであれば、様々な要素を考えることができる。

 今に始まったことではないが、発言後に「笑い」を過剰に付加する喋り方をする人がいる。正確に調査したわけではないから、自己の主観的な印象の域を出ないが、特に若い女性に見られる傾向だ。初めて意識したのは、もう3〜4年前になるだろうか、社内の実習生を担当した時のこと。数週間にわたり指導担当だったため、会話をする機会が多かったが、何か助言をして意見や感想を聞くたびに、その返答のことばの最後に、軽い「笑い」が加わる。勿論、表情もニヤニヤしているわけだ。

 実習生であるから、現場での未熟な仕事内容に対して、一定の小言も言わねばならない場面も多いのだが、そうした内容に及んだ時も、その軽い「笑い」は絶えないばかりか、むしろその度を増してくる。そのコミュニケーション自体に、小言を言おうかと思ったが、内容的なことを優先しているうちに、実習期間は終了した。その後、街に出たときに、例えば買い物をすると、やはり若い女性店員が、商品を勧めてくる際のことばの後に、同種の「笑い」が付加されていることに気付くことが多くなった。洋服販売の店員ならば、「お似合いですよ〜、フフフフ」という具合に。

 昨日は、ジムのインストラクターがそうであった。新しいスタジオプログラムに参加したので、初心者が基礎的な動きを学ぶクラスでのこと。しゃべって運動内容を説明した後に「笑い」。「まだまだ、頑張って!」と激励した後に「笑い」。「よくできてます!」と褒めた後に「笑い」。どうもそれは既に身体性を帯びて、彼女の言語表現の一部に血肉化しているように見えた。

 物事が「笑い」によって楽しく運ぶのであるから、何もこんな些細なことに目くじらを立てる必要もないという面々もおいでだろうが、どうもこの「笑い」には、何か象徴的な意味があるような気がしてならないのだ。ちょうどこの日の朝日新聞朝刊21面文化欄には「社会学の時代なの?」という特集があった。その中で、東大教授の内田隆三氏が次のような捉え方をしている。

  「社会学とは常識や自明性を疑う学問である。この社会が何に拘束されているのか。多義的な視点で明らかにする。「自由な越境、個人の数だけ研究がある多様性」が、だいご味だ。」とある。

 また、明治学院大学の稲葉振一郎氏は、

  「『社会学とは何か』と答えの出ない問いを延々と繰り返すところに社会学のアイデンティティーはある。」

 として未来を先取りする可能性を示唆する、とある。

 となると、小欄で提起した「笑い」も小さな社会学ということになるのだろうか。この「笑い」の深層に潜むものとやいかに?

 朝日新聞夕刊11面の文化欄。作家の加賀乙彦氏が「本当の幸福はどこに 思い込み捨て、本当の「個」培おう」と題し、「人の目を過剰に意識することは、自分の評価を他人に委ねてしまうことにつながる。」ということに警鐘を鳴らし、「「個」は、自分の頭で考え抜き、他人と意見をぶつけ合いながら、人間関係を培っていくなかでしか、育ちえないのです。」と説く。

 また池澤夏樹氏の「終わりと始まり」では、「性格とキャラ立ち 借り物でない自分の物語を」と題して、「他者とのつきあいのトレーニングを経ないまま思春期に追い込まれた子供たちは、どうやって社会性を得るのだろう?」と疑問を呈する。そうした状況の中で、「生きた友だちのかわりに彼らが得たのはアイドルであり、漫画やゲームのキャラクターだ。」という。「漫画とゲームの世界で育った者は、単純化された「キャラ」の中から、その時々自分に合ったものを選べばいい」として「自分を取り巻く小さなコミュニティー内の役割を選ぶ」のであると。要するに、人間関係が「記号化とアイコン化」をきたしているのであると指摘する。最終的に、「キャラを引用しての自己説明の習慣を捨ててみよう。ぼくってこんな人・・・・・から脱却しよう。」と提案する。


 こうした諸氏の至言に耳を傾けると、簡単に結論は述べられないが、小欄で話題にしたことばの後の「笑い」は、人の目を過剰に意識し、その抵抗感を薄めるために導入されたのではないかという仮説が立つ。自分の発言に対して相手がどのように反応するか、そこに必要以上の軋轢を避けるために、緩和剤として「笑い」を導入する。また、他者に何らかの指示を出したときに、一方的にならないかという不安を解消するために、緩衝材として「笑い」を導入する。

 また、その「笑い」に、漫画や女性俳優的な「キャラ」を見出し、小さなコミュニティーの中で、「私はこういう人」というアイデンティティーを保持する、自己肯定の為の間(ま)であるようにも考えられる。皮肉な解釈をすれば、小さな社会の中で、何らかの軋轢が生じても、この「かわいいキャラ」なら許してもらえるというような、避難路の確保という意図まで読み取るのは、あまりに深読みし過ぎであろうか。

 みなさんの周りにもたぶんすぐに発見することができるはず。発言の後に「笑い」を付加する若い女性を。
関連記事
スポンサーサイト



カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/136-1552ebe2

<< topページへこのページの先頭へ >>