「正しい理論ではなくて、美しい歌を唄おう」『FAMILY GYPSY』(その2)
2013-07-21
ことばを選ぶ。何が”適切な”語彙か?
などと学校の試験は問い質す。
答えは「道徳」の中にある。
でも本当に”美しい”とはなんであろうか?
昨日の小欄に記した書物『FAMILY GYPSY』の幾らかの頁を再読している。直感的に付箋を貼っておいたところを中心に。なぜかその素朴で飾らないことばの数々に、涙腺が緩む。たぶん今は自覚がなくとも、生きることの節目にいることで、僕自身の心の琴線が甚だ敏感になっているのかもしれない。笑顔を失い顰めっ面になった時、思い出したいのが高橋歩さんのことばと写真である。
「苦しい時期が続いても心配はいらない。
成功するまでやれば、必ず成功するものだから。ただ、やめずに頑張り抜くのみ。
そして、目に見える結果が出て来た途端、すべては変わる。
周りからの評価は、180度転換する。
失敗は「経験」と呼ばれ、わがままは「こだわり」と呼ばれ、
自己満足は、「オリジナル」と呼ばれ、意味不明は、「新鮮」と呼ばれ、
協調性のなさは、「個性」と呼ばれるようになる。」
(同書255頁)
僕たちは、周囲からの評価を気にし過ぎているのではないか。また社会が、前向きな評価よりも、欠点の露出に躍起になっているようにも見える。不毛な中傷合戦が、至る所で行われる。ことばは本来美しいはずであるが、こうした社会の中に放り込まれると、不幸にも暴力的で残虐性に満ちたものに化ける。もちろんそれはことばのせいではない、ことばを使用する人間の心の醜さが露呈しているに過ぎない。あまりにことばが惨めである。
「正しい」とは何か?「正解」を求めるのが教育か?「理論」化されたことばは「正しい」のか?否、たぶん教育に関わるすべてのこと、学校・授業・試験・学習内容・学習活動・指導法・教材・教具・・・等々に「正しい」などないのであろう。だが、それぞれの領域を「改善」しようという意図が国語教育の分野では働く。一定の「枠」を「正しい」と定めて行く。「正しさ」が精密に見えない「文学」が昨今大切にされないのは、こうした規範主義の表面化である。
だが本当に生きる為には何が必要なのだろうか?
高橋歩さんのことばを借りれば、
「美しい歌を唄う」ことだ。
そしてまた、「美しい歌」を唄おうという意志ある人に出逢うことである。
最後にもう一節、高橋歩さんのことばを紹介しておこう。
「旅も人生も同じ。
どこに行くか、ではなく、誰と行くか。
なにをするか、ではなく、誰と生きるか。」(同書265頁)
4人家族の世界一周旅行。
この「枠」から飛び出した生き方に、
大きな力をもらった。
高橋さんの生き方自体が、「美しい歌」なのである。
さあ!唄って素敵な夢を叶えましょ!
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