連ドラ直後の不快感に一言
2013-07-10
久し振りに朝の連ドラを継続的に視ている。地方色豊かな内容ゆえに僕自身が地方に来たというタイミングも大きい。
もちろん正直なところそれ以上にヒロインの”好み”に左右されているのだろう。
ところが最近、視終わった時に気になることがある。
15分の楽しみの”余韻”が奪われているのだ。
国語教育のこれまでの大きな反省は、「指導者の読む唯一無二の主題(正解)に向けて進められる授業」ということであった。「この小説はこういうものです。」という指導者側が読みたい方向に誘導されて、果ては試験があるために学習者個々の受け止め方がどうあれ、それが強要される。ましてやそれは往々にして”道徳的”な読む方である場合が多く、小説の可能性を矮小化してしまう。本来は自由な想像力を養うはずの国語の授業が、逆に鋳型に嵌り込み想像を許容しないものになってしまう。これが学習者を国語嫌いにさせる大きな原因であった。
小説を読む際に、文中のしっかりとした根拠に基づき自由に読むことほど楽しいものはない。自らの生活・体験に即しながら、新たな意味を創造して行く過程。個々の批評性や想像力の翼を広げて、その奥行きを開拓して行く。小説を読むということは本来は実に能動的な行為なのである。
さて、朝の連ドラの話に戻ろう。15分の小さなドラマは、自ずと断片的である。明日はどうなろのだろうか?という期待と不安な場面で終わる場合が多い。そこで視聴者は、存分に「批評性と想像力の翼」を使って飛び回りたいものだ。たとえそれが即座な出勤時間であろうとも。(むしろその想像の幅が出勤へと心身を仕向けるといっても過言ではない。)
だがしかし、このところ連ドラを視終わった瞬間、当該放送局らしからぬバラエティー番組が始まり、あろうことかその司会者がドラマに対する感想を述べ始める。視聴者が様々な想像を楽しもうとする”余白”を剥奪するのだ。これには毎回甚だ辟易しており、連ドラが終わるといかに瞬間的にTVスイッチをOFFにするかが大切な行為となっている。これはまさに、「感想の強要」ではないだろうか。連ドラは今や、その枠外において最も犯してはならない過誤を、笑顔で視聴者に強要している。
幸い連ドラの内容が好評らしいので、世評は保たれているようだ。しかし、僕と同じような不快さを感じている人々も少なからずいるのではないだろうか。逆にその”似非バラエティー”の司会者が述べる感想に首肯いている主婦などがいることを恐れる。連ドラを視た感想や想像までも他者に依存してしまう、「余計なお世話」社会という風潮が増幅するからだ。少なくとも連ドラと「ゆく年くる年」の後は、全面的に無表情で髪型は七三分けにしたアナウンサーの、「・・・時になりました。ニュースをお伝えします。」という渋い口調が何よりお似合いなのである。
全員が全員で同じ感想を持つほど不気味なことはない。
個人個人で顔や生活が違うように、感想や想像は自由であってよい。
このごく当たり前のことが、危機に瀕している局面が随所に見られるのではないか。
決して大袈裟ではない。
連ドラの感想はテレビを見続けていれば言ってくれる。
「きっと誰かがやってくれる」
それが選挙の投票率そのものであることを直視すべきだ。
依存過多社会を放置すると、知らぬ間にとんでもない世界に連れて行かれてしまう。
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