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斎藤兆史著『教養の力 東大駒場で学ぶこと』

2013-07-03
めっきり「教養」という語も影を潜めた。
いや、そのような流れに迎合しているだけではないか?
あらためて「教養」とは、学ぶ者として、人間として不可欠なものである。
そんな志を深くする一書である。

「教養」とは「確かな判断を行うために必要な「知」のあり方」なのである。公共の場で好ましくない態度をとる人がいたとする。知人の大学教授は、「まったく教養がない者はだから困る!」といって強く非難していたことを思い出した。「教養」という語そのものが矮小化され、日常的な態度とは分離してお蔵入りするが如きものとなってきてしまった。最高学府である大学ですら、「教養」を大切にすべきという論調から外れた思考で物事を進める事態が顕著である。

斎藤氏の著書では、「教養」の基本的なあり方からはじまり、「学問・知識としての教養」「教え授ける・修得する行為としての教養」「身につくものとしての教養」を具体例を示しながら説き、まとめとして「新時代の教養」について展望を述べている。典型的な教養書のあり方やそこから学ぶべき事の重要性。そして「センス・オブ・プロポーション」という知的技能のあり方を再発掘し新時代への提唱とする。

「様々な視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。」という一文には深く共感できるものがある。「教養」とは空虚な知識ではなく、「行動原理」や「バランス感覚」の根幹になる人として重要な知であることが再認識できる。それは「あとがき」に示された斎藤氏の個人的な経験でより説得力を増す。

”3.11”の際に東大駒場の研究室にいた斎藤氏が、帰宅を諦めてキャンパスで一夜を過ごした時のこと。誰ともなく食料を調達し炊き出しをするという助け合いが、自然発生的に存在していたという。「「教養」を旗印に掲げる学部では、人が人を思いやり、お互いに情報を提供し合い、そして助け合っていた。」というエピソードには、個人的に深い感慨を覚えた。僕自身、かつて大学学部を卒業した頃、「研究者」はここで示されるような「バランス感覚」を欠く存在である、という固定観念に支配されてしまっていたことがあった。その思いを強くしたが為に、自分にとって「現場」と思える中高の教諭への道を一時は選択した。だがしかし、そこで教壇に立ち年数を重ねると次第に「教養」の重要性に眼が開かれた。「文学」を学び教えるということは、「正義を見極める様々な情報を有している」ことに連なり、まさに「バランス感覚」を備える方法であることに気づいたのである。

このところ小欄でも、
「文学は人生に意味を与える」という趣旨のことを書き込むのは、
こうした経緯の延長線上にある。

いま僕は、「国語教育」と「文学」の接点で新たな模索を開始した。
「「科学的」理論や教授法」のみならず、
「教養」ある「国語教育」を再興させ「文学」の復権を目指すべきであろう。

何より僕たち大学教員が、
「教養」に対して誤った認識を持っていてはならない。
今一度、自らの「教養」を点検し学問の意味を考える為にもお薦めの一書である。
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