英語と標準語〜画一化幻想が生む劣等感
2013-06-22
世界には少なくとも3000以上、5000ほどの言語があるが、それらは減少し消滅へ向かうものも多い。
1言語が消滅するには60年ほどもあれば十分で、
多言語・多文化社会は標準とされる言語に浸食されて行く。
世界で英語が話せる人口は10億人程度(世界人口の約六分の一)。
たぶん日本人の多くが、「英語=グローバル」という幻想から脱し得ないでいる。
それは「早期英語教育」の推進傾向を見ても明らかだ。
大学院の複数担当授業で、英語教育の先生から提供された話題。実に考えさせられる内容であった。たぶん多くの人が概略は心得ていたとしても、日本人の持つ英語に対する意識は、こうした背景を無視した劣等感の中に置かれていることが再確認できる。同じような現象に、「標準語中心主義」があるのではとふと考えた。明治以降の近代国家建設を目的に「国語」という教科が設置されて、「標準語」によりどの地方出身者でも理解可能な”政策的”言語を産み出して来た。決して「標準語=東京語」ではない。僕自身は、「江戸”方言”話者」であることにささやかな誇りを持っているのだが。
西洋文化の過度に加速的な流入を、この150年間ぐらいの間に2度経験した島国。国内言語の統一化を始めとして、明治期の教育が人々に施して来たことは計り知れない。どこかでわれわれも、その影響下にあるのだが既に自覚がない。直立不動で立っていたり、等間隔に統制されて並ぶことは、学校では標準的な遵守事項であるが、これも明治期に始まる軍隊規律に端を発している。そして明治期に「国語」が、戦後に「英語」が、画一化され価値の高いものと意図的に標榜されて行くというのは、聊か乱暴な結び付けであろうか。いずれにしても多様を廃し画一化を求めて来た歴史が、劣等感となって随所に表出しているということぐらいは言えそうである。
夏目漱石は、英国留学の目的を「英文学」と定めていた。「英語教育」なぞ毛頭学ぶつもりはなかったという。この明治期に存在していた風潮が、豊かな近代文学の始発に貢献した。「文学」と「国語教育」の交差点を考えるとき、自ずと明治期に行われたことを検証し直す必要性をいま強く感じている。「英語教育」もまた然り。「会話技能」優先の発想からすると、明治期の教養主義的な英語が埃を被ったもののように見えるようだが、果たしてそうなのであろうか。「話せない」のは、文化を学ぶという敬虔さを捨象しているからではないのか。骨なき筋肉付けに躍起になっても、所詮砂上の楼閣であろう。
英語教育の先生が授業の最後で語ったことが印象深い。
「言語は人と人とを結びつけるもの」
否、
「人と人とを排除し合うもの」
であると。
言語を奪えば文化が消失する。
要は、文化なくして学ぶ「国語」も「英語」も幻想に過ぎない。
画一化幻想に眼が眩んだ劣等感の持ち主こそが教育を矮小化してしまう。
言語を通して真に思考力・想像力を育むにはどうしたらよいか。
僕らは常に時間的・空間的に広い視野から捉え直す必要がある。
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