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『いまファンタジーにできること』まさに”いま”こそ

2013-06-19
「わたしたち人間は世界を、
 自分たちと自分たちがつくったものだけの世界に矮小化した。」
この何気ない文章に、”わたしたち”の倒錯が見え隠れする。
「子どもたちに(矮小化した・中村注)その中で生きることを、
 ことさら教えこまねばならない。」と続く。
『いまファンタジーにできること』(アシューラ・K・ル=グウィン 河出書房新社 2011年)の一節である。

”わたしたち”が本当に文学を通じて学びたいものは何か?とりわけフィクションの典型であるファンタジーをなぜ読むのだろうか?年齢が上がるにつれて、ファンタジーを読む意味はないと多くの人が思っている、いや思い込まされている。より矮小化されたリアリスティックな文学や考証を旨とする評論こそが、”読むべき”高級な文章であるという思い込みを。だが、社会の汚さに紛れれば紛れるほど、「善と悪との間にある”違い”がわかる方法について」何かをファンタジーから学ぶことができるはずである。

動物と人間は「連続体」である。「二項対立」で捉えるという「矮小化」が近代化の波の中で加速した。「共生」が盛んに唱えられるのも、その加速化が間違いであるということへの反省に違いない。その「連続体」に回帰するために、ファンタジーには動物が登場し人間とともに、いや同等に行動し忘れられた何かを蘇らせてくれる。「より大きなコミュニティーを再び獲得するために、想像力と文学がある。」と同書は説いている。

「ファンタジーは経験を否定し、不可能を可能にし、重力を無視する。ファンタジーは掟を破る。ー子どもたちやティーンがファンタジーを愛する一番の理由はこれかもしれない。」とも。

この一節を僕なりに表裏を反転させて書き換えてみよう。

〈教育というものは、経験を尊び、不可能を見極めさせ、重力を論証し思い知らせる。掟を守ることを絶対視する。子どもたちやティーンが教育を嫌う一番の理由はこれかもしれない。〉


僕たちは「国語教育」そのものが、
実に「矮小化」した世界観でしか構築されていないことに、
自覚的になるべきであろう。

真に想像力が必要な”いま”こそ。
「善」というベールに包まれた「悪」が、
大きな顔をして跳梁跋扈する社会であるからこそ。

せめてファンタジーに遊べる大人であり続けたい。
僕たちの悲惨な現実に気付く為にも、お薦めの一書である。
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