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語学を学ぶのは何のため

2013-06-18
先週から教員対象の英会話クラスが開講した。
1週間で一番授業の多い日の昼休み。
場合によると、夜には東京出張に赴く金曜日。
だが、「忙しい」を理由にしたくない。
英会話に臨んで来たこの5年間ぐらいで積み上げたものを崩したくはないゆえに。

語学と筋トレは似ていると、いつか小欄に書いたことがある。やめてしまえば感覚(筋力)は退行し、使い物にならなくなる。少しでもいい、継続して「話す聞く」機会が持てればレベルへの納得はともあれ、維持できるものである。過去には大学院入試を中国語で受験したほどであるから、英語よりも得意な感覚を持っていたが、今や英語の方が確実に得意である。(中国語「筋力」が退行してしまったのだ。少しこちらも筋トレを開始したいのだが。)

今現在、英語を学ぶ大きなモチベーションは野球観戦という趣味の為である。それゆえ日常から時間さえあれば現地放送で中継を観たり、少なくともハイライトは必ず観るようにしている。その実況を聴き取る耳はかなり高度になったと自負できるものがある。やはり好きな物の為に行うという動機付けこそ、語学充実を支える大きな要素であると思う。

大学学部の基礎課程で、2つの外国語(英語・中国語)を学んだ。その時は、双方を学ぶ意味はそれほど鮮明ではなかった。だがしかし、中国語を学んだことによって高校までは「漢文」という範疇でしか理解していなかった「中国文学」を、「外国文学」として考える視点が得られた。漢詩の原典リズムの美しさが体感できた。語学が一定の「文化」を背負っているゆえに、学ぶことで萌芽するものがある。

語学は「話す・聞く」「読む」「書く」のどの要素も含み込む為に、双方向の授業が作り易い。昨今、大学授業への「アクティブラーニング」導入が様々な場所で提唱されているが、語学を的確な方法で教授することにおいては、これまでも十分にその条件を満たしていたのではないのだろうか。語学そのものが何の役に立つという功利主義的発想ではなく、語学を学ぶ過程に様々な苦難と葛藤が存在し、それを体験することに意義があるのではないだろうか。僕の母校学部が、基礎課程で徹底的な語学教育を行って来た意味は、このあたりにあるのではないかと思う。

小欄で繰り返し語って来たことであるが、今一度。
「学び」とは”何の為”になるかはわからないものである。
ゴールを見据えて「学ぶ」のではない。
その「学び」の経験から歩む道に光が照らされるのだ。

大学に限らず、
「この科目は要不要」といった悪癖が教育現場に跋扈している。
どうも”直線的”にいきたい人が増えているのだろうか?
寄り道・回り道をしてこそ人生に意味を与える光景に出逢えるのに・・・。
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