机上ではなく現実の感動を
2013-06-07
前期の教育実習真っ盛りな時季。その参観で様々な学校を訪ねている。
国語の授業のみならず、
小学校で「道徳」の時間を参観することも。
そこで少々感じたことども。
5年生「道徳」授業のテーマは、「自然に畏敬の念を抱く」であった。教科書には「皆既日食」観察に出向いた人の体験談を記した文章がある。遥か遠くまで観察に出向いた際に、天候が悪化した時・回復した時など、体験した人の感慨が語られている。文章内容から児童たちは「皆既日食」と出会うという太陽系規模の稀少な天体現象を追体験し、観察者の心境を想像する。そして自らの体験に近いものはあるかと考える。
実習生の授業後、校長先生としばし授業について語り合った。お忙しい中、懇談時間をとっていただき感謝の念が絶えない。そこで校長先生が教えてくれたことは、「机上ではなく現実の、本当の「感動」を体験させたい」という願いであった。「自然への畏敬」を理屈で学ぶのはある意味でたやすい。だが本当に心から「感動」したことは一生児童たちの中に残るのだという。長年現場で児童たちに接して来た教員の迫真のことばであった。
その上で、社会全体が子どもたちからそうした体験を奪ってしまったとも。校外での諸行事でも「危ないものはやめるべき」という親御さんの要請。Web全盛時代でリアルな体験ではなくして、わかった気になっている子どもたちの日常生活。空虚な”作り物”が氾濫しているので、本当か嘘かを見極める眼も衰える。子どもたちの成長段階にこそ、真の”感動”が欲しいのであるがと、校長先生のことばには説得力があった。
確かにそうだ。「道徳」などは授業において教科書から学ぶものであろうか。子どもたちに未知な人々との”遭遇”機会を与えることで、耐え難い経験などを通して心に大きな化学変化が必要な学びであると思う。理念上の体験学習でもない、広い社会との邂逅。そこに人間的な成長が生じて来る。だが現状の社会は、そうした経験を子どもたちから次々に奪って来た。
学校が全てを請け負う社会。
教員の負担は最終的に、肝心の授業に皺寄せとなる。
様々な面で社会全体が子どもたちを育てるシステムを再考すべきであろう。
過去においては日常にあったシステム構造であるはずだが。
失われてしまったものを取り戻すには僕たち一人一人の努力が必要だ。
「次世代の教育者に頑張ってもらいたい!」
校長先生のことばに、改めて自己の使命感が起動した。
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