多様性が認められる社会ではなかったのか?
2013-05-30
”グローバル社会”などと言われて久しい。もはや一時代前の標語のように響く。
それは果たして自明性を伴ったからなのであろうか?
「異文化理解」を促進し多様性を認める社会。
否、大変中途半端な位置で日本社会の場合は宙吊りになってやしないだろうか。
3.11以後に盛んに語られた「絆」や「一つになろう」といった類の語彙。またその延長上で語られる「日本」という枠組。「この国はどんな苦境にも挫けない」という発想の裏側に潜む懐古主義的な現実逃避。「昔はよかったが、今の若者は・・・」と日常でよく聞く言葉にも多様さを認めない排外主義の発端がある。「今の若者は・・・」と思わざるを得ない状況を社会の中に造って来た世代の当事者であるにもかかわらず、多くの者が口にする言葉である。
四方を海で囲まれた島国。この地理的条件が幸か不幸か”グローバル化”という喧伝も空しく宙吊り社会を構成している。「外国語(特に英語)を喋ることができない日本人」というレッテルはいつまでも払拭されず、様々な政策が施されるがむしろ現場混乱の誘因となっていることも多い。政策・制度の問題はもとより、教える指導者側が”グローバル化”した多様性ある生き方がどのようなものかという発想を身を以て理解しているのだろうか。会話する「技能」も大切なのであるが、会話への意欲を醸成する基本的な発想の上で、決定的に欠けるものがあるように感じてしまう。直接的に結びつけるのは慎重であるべきだが、学習する若い芽は「海外留学」に目を開かず内向き思考に籠らざるを得ない悪循環が生じている。
「多様性を認めている」確かにそう思えることも多くなった。だがしかし、教育現場では、試験の為、評価の為、好成績の為、はてまた排除されない為に、一つに収斂した考えに同調せざるを得ない雰囲気を感じることも多い。国語では「意見の交流」といった活動が行われる。そこで自分が他者の意見を受信し熟考し表現する過程を経て、どのように変われるかが重要な筈だ。「変わる」ということに抵抗があるのも我々の”欠点”である。「先ほどと言っていることが違います」という指摘を憤慨して施す局面が多々あるが、他者の意見を受信して熟考したら表現は変化してこそ妥当である。
まさに「対話」が醸成されるか否か。
「A+B=C」という図式。
「A+B=AorB」ではない。
しかし、日常生活の多くの場面で
「A(◯)かB(×)か」という二者択一な発想が幅を利かせている。
司法の場でもまた、夫婦の生き方に対して多様性を認めない判決が出された。
まさに”グローバル化”(国際化)はどこに行ったという方向性である。
内向きな視点で広域と交流することほど怖いことはない。
せめて歴史からは、今一度学ぶ我々でありたい。
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