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平田オリザ氏著『わかりあえないことから』への共感

2013-05-28
昨日の小欄でも紹介した平田オリザ氏の著書。
『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何かー』
(講談社現代新書・2012年10月)
巻末まで読み進めるに、その深いコミュニケーションへの情熱に目頭さえ熱くなった。
されど僕自身は、演劇人ではない。
芝居の経験も演出の経験もない。
だがしかし、この違う価値観から学び自己の中で何かが確実に変わり始める。
書面から「情熱」を読み取るというコミュニケーションが成立したからであろう。

平田氏は、現在の日本が「「異文化理解能力」と「同調圧力」のダブルバインドにあっている」社会だとする。職場・学校・地域・家庭等々、身近な社会を見回せばすぐにその狭間を発見することができるだろう。その結果、既に「日本はバラバラ」であり、その中で「どうにかしてうまくやっていく能力」が求められていると。教育現場への視点で述べるならば、「伝える技術」を「伝える意欲」がない子どもたちに教え込むのでは定着せず、「伝わらない」ことを経験してこそ「伝える」気持ちが養われるというわけだ。

平田氏の国語教育への提言は実に斬新である。僕自身の研究・実践にも大変示唆的であるため、ここに覚書として引用させていただく。

「要するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編み直していかなければならない。
 そのことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不定型なものだという覚悟を持つということを意味する。」(同書・P58/59)

「演技」とは、「もともと他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術なのだ。」(同書P187)というのが平田氏の定義。更に日本社会は「演じる」ということに順応しておらず、例えば日常生活の中で「(職場・学校等で)役割を演じる」ということは「悪」だと見なす慣習が強いと指摘する。確かに「正直で素直な心」が学校教育の目標として掲げられることは多い。この問題を「コンテクスト」という語彙を使用し、演劇が社会・教育に対してできることを前向きに提案しているのが同書である。

「同情から共感へ」
「同一性から共有性へ」
「シンパシーからエンパシーへ」
「協調性から社交性へ」
平田氏の思いが多彩な語彙で換言されていく。

「「わかりあえないこと」を前提にわかりあえる部分を探っていく営み」
同書のタイトルが、すっと腑に落ちて来た。
ぜひ「エンパシー」を感じていただきたい一書である。
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