自分の立ち位置が交流の始発
2013-05-24
多様な考え方を紹介し交流することは貴重である。それまで気付かなかったことを自覚する。
疑問から始発し多様性を享受し共感していく思考過程。
他者の立場を認めることで自己の中に納得が生じる。
こうした容認の過程に於いてもまず自分の立ち位置を知ることが重要だ。
教材文に対してどのような考え方・感じ方をするかは多様でよい。決して「答えは一つ」ではない。テレビ番組等では、「◯か×か」という二者択一の手法で「正解か誤答か」と問い掛けるが、「何を基準にどのような観点で◯なのか、×なのか」と思考する必要がある。それまで「正解」「当然」だと思っていたことに疑問を抱く。果たしてこの情報の真偽は何か?そこに多様な思考の入口がある。
指導者たる立場において、教材文に対して「自己の思考」を確立しておく必要がある。それでこそ多様性を享受し交流する学びの場を生成することができるからだ。例えば、ある短歌を教材として扱ったとする。その短歌に対して深い愛着を覚え共感し感激している指導者が、「素晴らしい・素晴らしい」と訴え続ける。それは押しつけではなく、自分の立ち位置を披瀝したということ。もちろん学習者が「意味わかんない」「くだらない」と思うこともあるだろう。だがしかし、一つの基準たる立場を示すことで短歌を読み取る窓口に出会うことができる。共感はむしろ押し売りしなければしないほど、その性質が浸透する矛盾に満ちた感性であるように思う。
それだけに多様な読書体験が指導者には求められる。評論や文学をどれだけ読んで、自分の立ち位置を見定めようとしているか。一冊一冊の本が、今の自己を投影する鏡となる。そういえば先日、懇意にする方がTwitterで次のような内容を紹介していた。「本は時間がある時に読んではいけない、時間があるなら思考せよ。」といった趣旨であったと思う。この内容を呟いていた方もたいそうな読書家だ。電車内、休憩するCafeなどで次々と読書を重ねている。時間は有限、ゆえにいかに創り出すかが肝要である。
教育実践の現場に赴いて感じたことから。
読書好きな教員が読書好きの子どもを育む。
いたって自明なことである。
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