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知識とは何か?

2013-05-23
簡単なようで難しい問い。
明快に説明するにはそれ相当な準備が必要だ。
「知識とは何か?」
喩えるならば何を思い浮かべるだろうか?
「知識とは・・・の如し、その心は〜である。」と。

ある共同研究会の席上、まとめの話の中である先生が問い掛けたことであった。「階段の如し、その心は、段階的に昇ります。」とか、「スライムの如し、その心は、如何様にも変化します。」などの返答が会場で指名された方から出された。問い掛けた先生も言っていたが、そのまま議論すれば結構面白い展開となったであろう。「学力観」を問う上では不可欠な議論であるともいえる。

僕はその時、心の中で「知識とは”筋肉”の如し、その心は、常に動かし鍛えればそれに比例して力を発揮し、動かさなければ衰え続けて行く。活用して何かの”仕事”をこなしてこそ意味を持つもの。」といったことを思い浮かべていた。筋繊維の断裂・更新が繰り返されてこそ高度な”仕事”がこなせる筋力が生じて来る。見せる為の物ではなく、活用して何かを成すものといった考えを咄嗟に思いついた。

問い掛けた先生が、最後には自分なりの考えを披露した。「知識とは”光”の如し、その心は、見えないもの見えるようにする。」と。それまで道端に生えていた植物に目も止めなかったものを、「知識」があればその名称や特徴から「何がどのようにこの季節だから花を咲かせている。」と気付くことができる。また、知識とは「道具」であるとも。「活用してこそ意味が生じる。」というわけだ。

その上で先生の話の締め括りは、「教育の中で語られる「知識の定着」という概念は旧態な発想である。」と指摘した。指導者側は、往々にして「知識が定着しているか」を問題にするが、そこが要所なのではなく「活用」することを考えるべきであるということを述べた。確かにそうだ。僕の比喩である「筋肉」で考えてもそうだが、「活用」していれば「知識」そのものも維持・発展する。「覚えたか・覚えていないか」を問うようなテストを繰り返し、”イタチごっこ”になるよりも遥かに建設的な学習活動となる。例えば、古典文法の知識を問うテストなどが典型であろう。たとえその内容を覚えたとしても、活用できる「筋肉」にはなっていない。形骸化した見せる「筋肉」であっては致し方ないということである。

共同研究という理論と実践の場を結びつける格好の舞台。
今年度の成果を目指して、その一員として奮闘する心構えができた。
「国語」において少しでも「活用」できる学びを構築したい。
それには「言語活動」が鍵を握るのは言うまでもない。
学習者の「脳内知的筋肉」を鍛える学びとは?
年度内に僕なりの成果を形にしようと思う。
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