学生はなぜ講義で前に座らないのか?
2013-05-09
いつの時代も多分変わらないのであろう。大学の講義は自由席であるがゆえに、学生は極力後ろに座る。
更に焦点を絞っていうと、教壇の前5列程度を避ける。
前であっても、両側には2〜3列目から座る学生もいる。
多くの場合は、教壇から見て逆U字型に座るのが常である。
これは果たしてなぜだろうか?
あらかじめお断りしておくが、よく類似したタイトルの本があるように、小欄では”心理学的”な分析を提示できるわけではない。あくまで現場で感じたことに基づいた”思い込み”に過ぎないかもしれない。それでも最近、学生自身にこの現象の原因を聞いてみようかと考えてもいる。ということで、聊か独断と偏見に満ちた内容であるが、お許しを願いたい。
未だ講義式授業の多い日本の大学。さすがに300人以上の規模は姿を消したのではないかとは思うが、僕の学生時代には数多くあった。巨大な教室で行われる講義は、授業というよりは講演会のような様相。もちろん、授業者はひたすら一方的に語り尽くすしか方法がない。ただただ淡々と続けられる講義と、それを受ける学生との間には大きな溝が存在していた。それでもなお、いやそれだからこそ学生は、後ろから座り自分なり過ごし方ができる”場所”を確保しようとしたのであろう。当然ながら教壇に近いあたりは空席であった。
教室容量の影響も大きい。受講者数に対して、前まで使用しないと着席できない程度の容量であれば、比較的前の席も埋まる可能性がある。(特に遅刻者)現在、僕が担当している一つの授業がそうであるが、せいぜい「あと1つ前に」と指示すると、双方向の講義がしやすい環境となる。ところが受講者の2倍程度の容量がある教室は厄介だ。前述した担当授業の並列クラスを進度や内容の関係もあって毎週参観しているが、その教室は広く自然に教壇前には空席が目立つ結果となる。
結論を急ごう。学生が教壇周辺の座席を避けるのは、授業内容の「当事者」になるのを嫌うからだろう。「講義」であるなら極力”傍観者”であり続けたいのである。小中高校を通して、〈教室〉で”目立つ”のは御法度である集団環境が存在する。以前にも小欄で指摘したことがあるが、子どもたちは教科書を限りなく平板に目立たないように音読する。英語の時間に帰国子女が、敢えて”日本語訛り”で力量よりも英語発話としては下手な音読を展開するという現象がある。心を閉じ込めて本当の自分を露出しないのが、〈教室〉での”得策”なのである。”異質”で突出した存在となることで予想される”排斥的行為”から身を守ることが、〈教室〉で生き抜く手段なのである。昨今の若者が、どんな時にも「普通に・・・」と日常会話の中で頻用するのは、こうした〈教室〉での「横並び主義」の象徴ではないかと考えている。
僕が高校3年生の時、予備校の講習会に行った時は事情が違っていた。受講者は授業前に教室入口の廊下に並び、最前列の席を目指した。僕もその一人であったが、「大学受験」という大きな動機によって極力授業に参加しようという意志があったからだと記憶する。(お陰で翌年の予備校パンフレットに最前列に座る僕の教室風景写真が掲載され、浪人した友人の間で話題になった。)講師の先生の問い掛けに前の方の学生たちが自然と反応し、大教室ながら前から10列ぐらいは双方向性のある授業が成立していた。古典の講習では、最前列に座っていると教壇上で本文音読を指名される場合があり、むしろその機会で僕は今でも「音読・朗読」を”稼業”としている。よく予備校講師の先生が語っていたが、教室では前に座るほど合格率が高いというのだ。「授業に参加する意志」を動機を含めて喚起する必要があるということだろう。
「参加する」ことが「普通」である授業環境を作り出すことがまずは肝要であろう。その上で、「横並び」ではなく「個性」にこそ価値があるとする教育環境を小中高校を通して創り出して行かねばならない。世界基準において、日本の大学の教育力を検証する論調も喧しい。”制度”・”施設”といったお題目やハード面ばかりに目が行きがちであるが、小中高校という学校環境全般を見据えた授業に対する発想転換が求められているのではないだろうか。「もの言わず、先生が言う答えのみを待ち、(自分の個性的な問題意識ではない)その答えを書いてテストで高得点を取り、有名大学に進学し、国家公務員か一流企業人となる。」といった路線を”優等生”とする教育観から、一日でも早く脱すべきではないかと思うのである。
まずは僕が今日できることから始めよう。
「参加する授業創り」である。
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