打席に立ち続けること
2013-05-03
ある若いお二人と話していて口をついて出て来た言葉。「打席に立ち続けることが大切」
野球による喩え話をよくする僕であるが、
お二人から「ポジティブな気持ちになりました。」
という反応をいただいた。
少々、お世話になったお二人へのささやかな感謝の言葉となった。
野球の試合では、どんなに優れた打者でも10回の機会のうち7回は”失敗”する。8回の”失敗”をしてもまったく普通の選手である。プロ野球ならせいぜい打率2割台が多いわけであり、3割台なら大変優秀な打者ということだ。好きなスポーツ競技を「人生」に喩えるのも世の常道であろうが、特に僕の場合は、野球の”論理”から学び励まされて来たことは計り知れない。
打者は2〜3回の”成功”の為に、7〜8回の屈辱に耐えなければならない。己のバットの振り方をまったく不甲斐ないと自覚する時もあれば、どう考えても”不条理”としか思えないコースを「ストライク!」と第三者に宣言され、1回の貴重な機会を失することもある。投手の球種や球威との相性も往々にして作用し、タイミングの上で打ち易い相手もいれば、どうしても”合わない”相手もいる。また第三者として公正に判定を下す筈の審判にも”癖”があり、それが自分の苦手とする箇所と重なれば、意識の上で”公正”だとは思えなくなり、もともと多い”失敗”を大変な”不条理”だと過剰に意識することもある。
”社会”に挑戦することもまた同じではないだろうか。とりわけ昨今における、大学生の就職事情を鑑みれば、その”打率”は更に低くなっている。新卒者のみならず、僕たち研究者として”定職”を得ようとする場合も事情は同じである。常に「採用される筈だ」(「ヒットが打てる筈だ」)という希望を抱き打席に立つが、多くは球を打たずして「三振」の宣告が紙1枚で無情にも為される。野球と大きく違うのは、投球コースは「ストライクであったか否か」、自分が「どんなに不甲斐ないスイングをしてしまったか」、を自覚することができないということだ。
とりわけ身近で知る範囲に「ヒットを打った人」を発見した場合、その人と比較して「なぜ自分は三振なのか?」という疑念が心のうちに渦巻いて来る。冒頭に記したお二人も、まさにそのような経験の中で次の機会を窺っているようであった。だが、そんな”疑念”に囚われて自らの前進を精神的に遅らせるよりも、今できる自分にとって万全な”準備”を施して「次なる打席に立つ」べきではないだろうか。物事を「不条理だ」で片付けることはむしろ簡単である。それは元来、自分にとって都合の悪いことを「不条理」と見定め、「公正」という言葉を理由にして自らの欠落を覆い隠そうとしているに過ぎない。野球でも打者が「ストライク」に見えなくとも、審判が「ストライク」に見えれば試合上の”公正な事実”は「ストライク」であるのだ。(それでも見逃した球は「ボールだ」と主張し、審判に抗議して暴言まで吐く選手もいる。)
かつて王貞治氏が選手時代、決して審判の判定に不服な態度を示したことはなかった。心が感じようとする「不条理」を噛み締めて表に出さず、大きな目を見開いて冷静な表情でベンチに下がって行ったのが印象深かった。それでも王貞治選手は、打席に立ち続け「868本」という打撃上の”大成功”(本塁打)を積み重ねたのである。
「打席に立ち続けること」
これを諦めてはいけない。
人生万事、次なる打席に希望を見出すことが肝要ではないだろうか。
「打席」をいかなる手段を講じて創り出しても、である。
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