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正しい言葉

2013-05-02
「正しい」ということに囚われ過ぎてやしないか?
文脈上、「適切」「的確」「好ましい」という語彙こそ「正しい」のに、
ついつい「正しい」で済ませているのではないか。
的確な場面で適切な言葉こそ好ましいのであるが、
「正しい言葉はなぜか遅れて後からやってくる。」

文章を書くのなら、少なくとも推敲をすることができる。しかし、口頭でことばを吐き出すと、修正することはできない。場面を想定し事前に”演習”を繰り返したとしても、なかなかその通りにはならない。ましてや、相手の反応次第で繰り出す言葉の選択を一瞬にして判断しなければならないというライブ性に支配される。そんな状況下で「正しい」などというのは、小説か”映画の脚本”にしかできない技ではないだろうか。(もちろん、気の利いた小説や映画なら、敢えて「正しくない」言葉を登場人物に吐かせる。)

唐突な場面で、ほんの数秒で表現する言葉を決める。意図や意識とは別次元の脳裏から、日々の蓄積から産み出された言葉が一連の表現となって立ち現れる。僅かな時間で己の真意を相手に伝えることは容易ではない。決して「正しい」か「正しくない」かなどの判定をする前に、言葉はその場で立ち消えて行く。だからといって、その過去となった”ライブ表現”に意味がない訳でもない。

ゆえに”ライブ性”に依存している場においては、「正しい」などということそのものに意味がない。場の要請に応えた表現であるならば、それが「的確」であり「適切」であり「好ましい」のである。語彙や文字という言語技能を集積すれば「正しく」はなるが、「好ましい」かどうかは疑わしい場合も多い。となれば、言語技能を駆使する「思考」、まさに「価値領域(ものの見方・考え方)」が重要になる。国語教育においても、この「価値領域」こそ求められる学力ではないかと、個人的に強く感じている。


来るべき重要な刹那に、どんな言葉を駆使できるか。
いつになっても、己の未熟さを感じることが多い。
それでも日々、唐突な邂逅に接したとしても、
言葉は自分の口から放たれている。
「正しい」よりも心の赴くままでいい。
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