施設・店ではなくて“人”なんだ
2013-04-29
5年ほど通って来たジムを約1ヶ月ぶりに訪れる。受付・下足箱・階段・ロッカー・ストレッチスペース
スタジオの床・スピーカーの響き・サウナの温度
何もかもが僕のトレーニングを支えて来た“施設”である。
敢えて「僕のトレーニング」と書いたが、
それは大仰に言えば「僕の生き方」を支えて来たとも。
どれもこれもが“思い出”になりつつある。
どうしても一つだけ欠けたものがあった。それはトレーナーさんの存在感。慣れ親しみアドバイスを沢山いただいたトレーナーさんは、今はこの施設にはいない。もし彼女が今もこの施設にいたならば、この1ヶ月ぶりの“帰還”で大袈裟な抱擁さえ辞さないほどの感慨があっただろう。もちろん、他にも顔馴染みのトレーナーさんはいるのだが、僕が“1ヶ月ぶり”であることに無頓着な印象しかなかった。このジムで日常的なトレーニングができなくなることに対して寛容であれたのは、こうした存在する“人”の変化なのであった。
トレーニングプログラムの中で掛かる音楽はその当時のもので、少なくともそこから過ぎし日の力を貰うことはできた。この曲では、こんな話題を添えてレッスンをしていたなど、同じ曲でもトレーナーさんの個性が身体に記憶されている。やはり“施設”“プログラム”を求めているのではない、“人”を求めていたのである。唯一、受付で会員種別の変更を担当してくれた方が、当時からの継続的な感慨を語れる“人”であった。(唯一、と書いたが、そういえばロッカーでいつも声を掛けてくれた「おっちゃん」もこの日はいた。彼には職場を移動したことを親しみ深く話した。)
ジムの後、昼食は馴染みのカフェへ。もちろん店主夫妻に会いに。その気持ちの上でこそ、美味しい食事も引き立つ。更には馴染みのカットサロンへ。長年、僕の髪を切って来た親友たる彼のもとへ1ヶ月間の報告だ。もちろん髪を切る技術の相性も大切なのであるが。
あくまで場所ではなく“人”のもとへ。
その邂逅に支えられて生きているということ。
あらためてそれを反芻すれば、彼の地での生き方も見えて来る。
出逢うことの運命的な“奇跡”を存分に楽しみ享受したい。
“生きる”とはそういうことであろう。
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