冷静な客観的視線を確保する
2010-01-28
27日(水)取材するという立場を考えると、如何に客観性を持って冷静に行動するかが求められるはずだ。されど、あくまで想像の域ではあるが、人間とは弱いもので、随所に自身の思惑が顔を覗かせる。交流があるジャーナリストという職業の方たちが、どんなにか日常から冷静であるかということを、常々感じていた。いや、冷静で客観的な発言があるから交流したいと思うのかもしれない。
たいそうひさしぶりに職場の大がかりな飲み会に参加。久しぶりに登場したので、たいそう珍しいという反応がありながらも、好感をもって迎えてくれたメンバーが殆どであった。人事発表の後とあって、各々の思惑は納得と反発の間を去来する。達観を決め込んでいる小生にとっては、この光景が不思議というか、懐古的である。その後の仕事の持ち場が決まるということで、一喜一憂する姿は、様々な人間模様を浮かび上がらせる。
ただ、単に人事の配置によって感慨を述べ合いながら、酒に興じるだけならば、それはそれでよい。妙に気になるのは、人事の以前から水面下での密談的な「工作」とも言えるような動きをする者の存在だ。幸い、この日の飲み会に、そうした類の人物は呼ばれていなかったが。大概の場合、自身の人事がどうこうというよりも、その類の人間の存在に、心の底から嫌悪感を抱いてしまい、こうした飲み会の場でも、その動きが露わになるので、避けてしまっていた感もある。
換言すれば、その類の人間は、自身の思惑を達成するために、他者を攻撃し排斥するような「空気」を充満させるのだ。そして、その「空気」に支配されて、公平に行われなければならないはずの諸事項が、実に一定の人間にとって有利に働く場合がある。各人が客観的なことを前提に、どのように思考し、どのように意見を持ち、どのような成果を上げるかということよりも、どこにどう働きかけて「空気」を醸成するかに腐心する。まさに日本社会のあり方の縮図でもあるのだ。
久しぶりの飲み会参加は、むしろ自己の客観性が保たれているかを試す機会となった。「思惑」の域を脱して、冷静に物事を把握している自分を確保しながら、過去の様々な事跡に対して批評的に再検討するために、「読書」から学び、広い世界の「人間」から学び、そして「書く」ことで「思考」していく。素人ながら、取材的な冷静さを保ちながら、自己の経験したことを、ジャーナリズムの精神で表現できれば、何らかの意味が生じてくるような気がする。
理不尽なことに対して、目をつぶらない生き方こそ、尊いはずだ。
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