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翼の先の人の輪

2013-04-27
先日、“有識者”の間で「ドラえもん」の話題になった。
「どこでもドア」を持っているのに、
「竹コプター」を使用する必要性があるのか?
という“議論”になった。
そこで僕が考えたことはこうだ。
「ワープ」のように途中の風景も見えないで移動してしまうのは無味乾燥。
街の中で人を捜すとか、偶有性をもった風景に出会うためには、
生身で俯瞰する必要性があるのではないか・・・と。

人が今日でも“翼”を使って1時間半程度で移動できる距離。遥か東の海上にはやや赤味を帯びた大きめの満月が昇り始める。しばらくすると漆黒の闇の中で光を放つ満月と同等の視線にまで上昇。手持ちの小説を余白まで丹念に読んでいると、すぐに光の密集地帯が見えて来る。

「往還」の基準を何処に置くか?自分の現実とことば上の反転に、小説世界が重なって見える。長年、慣れ親しんだ街を俯瞰して明らかに“旅行帰り”とは違う感慨に耽る。着陸後には実に利便性の高い乗物に、約1ヶ月ぶりの乗車。人の群れが車内を絶え間なく出入りする。

「きっと翔べるよね、勇気を出して。」
行き着く先には、そんな“悦び”のことばが待っていた。
偶然?そこに居た人。
そしてまた意図してこの日に定めて来てくれた人。
“翼の先の人の輪”に最高の温かみがあった。
ふと考えてみた。
都会が悪いのではない、
そこに“人の輪”を築かないのが悪いのだ。
「どこでもドア」ならぬ
「どこでもただいま」を持っていればいい。
素晴らしき空間、素晴らしき仲間。
そしてまたそのコントラストから、
あらたな「自分探し」をしている己が見える。
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