「音読」を再考する
2013-04-20
学校教育において、「音読」という学習活動は誰しもが経験したことがあるだろう。とりわけ言語系授業科目の「国語」や「英語」では多用される。
場合によると、それ以外の科目においても教科書内容を共有する為に「音読」の機会がある。
だが、果たしてこうした「音読」は、有効に機能しているかどうか疑問を感じることも多い。
僕の中では、こうした疑問に答えるべく著書においても一定の見解を述べてはいるが、
改めてその機能について考えさせられる機会を得たので少々書き留めておきたい。
「音読」=理解の為の音声化行為
自著で定義した「音読」の機能である。〈教室〉でただ漠然と「音読」を行うと、学習者の発する音声のみが流れ、本人はもとより聞く側の学習者にとっても無意味な活動になりかねない。ならば、どのような目的で「音読」をするのかを、指導者は明示する必要がある。多くは、〈教室〉全体で新しい教材を「共有」するためという目的がある場合が多い。だが、「個別指名読み」を繰り返しても、なかなかその「共有」という目的は達成されない。
このような現状を鑑みるに、教材に最初に出会う段階で「音読」は適さないということになる。むしろ、少なくとも何らかの問題意識を提示した上で各自が「黙読」した方が効果が高いとも考えられる。ある程度の内容理解が為された段階に至らなければ、「音読」を導入するのは避けるべきなのかもしれない。英語教育の観点から「音読」を考えた場合、むしろこのような立場が穏当であるという教唆をいただいた。
僕は「音読」を「理解の為」と定義したのであるが、それは決して一気に「完全な理解」を産み出す「魔法」のような効用を意図したわけではない。その「音読」を”契機”にして、文章が総体として含有する意味内容を捉えていく点を考えている。その「音読」が進行する合間には、もちろん語彙的・文法的な言語知識に依る分析段階が必要になるだろう。だが、古典の場合などが典型的なのであるが、詳細な分析のみが偏重すると、やはり文章としての「理解」が疎かになる場合が多い。よって「音読」と「分析」を融合させながら、「理解」を進行させていくというのが妥当なのではないかと考えもする。
僕自身の現在から考えると、例えば外国語である英語をWeb siteなどで読んで内容理解をする際には、明らかに「黙読」ではなく「音読」を施す。すると文章全体に含まれる語彙同士の相関関係などが見えて、概ねその意味を解することができる。もちろん、個々の語彙を調べることも重要であるが、「読み進め」て「捉える」という行為を推進するためには「音読」が有効なことも多い。”詳細”な「語釈」と”大掴み”な「音読」は、一方に偏るのではなく、均衡を意識して相互補完的に活用していくべきではないかという見解に至る。
英語教育と国語教育。
日本では、双方が双方なりの大きな問題を抱え込んでいる。
新指導要領では、小学校で「古典学習」が必須となった。
「英語活動」もまた然り。
中学・高等学校段階の教育で生じていた問題が、この”政策”で改善されていくのか?
少なくとも、「古典嫌い」「英語嫌い」の早期教育化だけは、
僕たちの力で何としても食い止めなければならない。
このような観点においても、「音読」の問題は大変重要である。
ある講義を経て、考えたことども。
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