大学入学で何が変わるのか?
2013-04-04
高校で学んだことと大学で学ぶことには、どんな変化があるのか?大学受験勉強は、大学での学問にどのように活かされていくのか?
昨今では、”高大連携”を模索する附属校なども見られるが、
この点は日本の教育にとって大きな問題であると常々考えている。
断絶でもなく等位線上でもない螺旋階段のような昇り方になり得ているのだろうか。
センター試験をはじめとして選択式設問の多い大学入試では、「○か、×か」という二項対立の図式から正解を導き出す。裏を返せば「間違い探し」という要素があるといえよう。ゆえに「受験テクニック」などという範疇を推奨する輩の中には、選択肢の様態から間違いを消去できるという類の、消去法的思考を説く者さえいるほどだ。「国語」に関していえば、ともすると「本文の読み」に帰結させるのではなく、「選択肢の読み」により「犯人探し」を行う思考で解答すると換言できよう。この時点で養成したい力とは、まさしく本文を客観的に読む冷静な”読み”に他ならない。そこが備わっていれば、選択肢に対しても妥当な判断を下すことができるだろう。こうした観点から、「間違い探し」の思考は否定されることもあるが、「批評的な視野」を持つという意味では一定の役割を果たしているのかもしれない。
大学教育を行う立場から「○か×か」という思考を否定することは、即ちそれ自体が「大学教育○、高校教育×」という図式を示すことになり、自らの論理を否定することにもなりかねない。「制度」として実効的に大学入試が機能している以上、それを通過する学生の思考実態を受け止めて大学教育にふさわしい思考へと導くのが、大学教育の責務であろう。反面、高校教育においても「受験技術」なのではなく、「批評的」に物事を思考するという広い視野での教育が望まれるのではないだろうか。もちろん、その為にも大学入試改革は必須であるだろうが、その大きな変革を待つばかりでは、現場は機能しない。常時「改革」が叫ばれる中でも、学生は受験し大学に入学してきているのだ。
かつて僕の尊敬する恩師は、「大学入学後に芽が出る種を蒔く」ことが重要だと説き、大学受験講習の中で、言語学や文学の様々な視点を紹介してくれた。現在の受験講習の中では「雑談」としか感じられないであろう内容が、僕の学問研究への道を開いた。
大学教育に携わる者として、まずは学生が高校までに学んできた内容・姿勢を尊重してみようと思う。そこを出発点として、「学問」への道を開く種を蒔かなければならない。とりわけ「教育」分野を専攻とする学部ゆえ、学生が実体験としての受けてきた教育のあり方を「受容」した上で、「批評」していく視野を養成したいものである。
高校大学の連接点に立つ
新入生の希望に満ちた清々しくも未だ青い表情を数多く目にして、
大学教員として新たな思いを起動させる。
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