研究者か教育者か
2013-03-27
電話口の向こうで恩師が半ば憤慨した声で僕に言った。「大学院に行ってどうするんだ!?」
僕:「大学教員になりたいと思います。」
恩師:「今は昔と違って大学教員になぞ簡単になれないんだ!」
僕:「研究を進めたいんです。」
恩師:「本気で研究をする気があるのか!!!?」
この厳しい叱責は、僕が私立中高専任教員をしながら大学院修士に入学しようと決意した際に、学部時代の恩師に相談した際の電話でのやりとりの一部である。学部を卒業する際には「大学院に行くか、教員になるか。」という選択で、後者を選んだ。机上の学問よりも、現場で実働的に生徒に接することの方が、僕自身には適性があると思ったからだ。現に当時、ある女子大の親しい友人が「よっちゃん(当時の愛称)は早く先生になるのがいいよ」などと言ってくれていた。そして現実にある私立中高の教員(当初1年は非常勤)となると、授業はもちろん、学校での諸活動がこの上なく“楽しく”感じられた。非常勤でありながら、多くの学校行事にも参加し部活動指導のお手伝いも始めた。
僕自身は、中高時代に運動部に所属しており「文武両道」が信念であった。大学時代は、「文学」への志を叶えるべく単線に歩んだ。その反動か、中高教員となり部活動顧問となった時、部室やグランド周辺に漂う汗の“香り”が懐かしく感じられ、心の口火から再び大きな炎が燃え上がった。自分が顧問する部活指導はもとより、全国レベルの部活動が2つ、双方にしのぎを削るように全国制覇を目指しているという環境に、この上なく心を惹かれた。
それから約10年間の専任教員生活を経て、冒頭に記した電話に至る。恩師も当初は「お前は教育者に向いている」と考えていたようであるが、執拗に「今一度研究者への道を歩みたい。」という意志を行動で示すと、ようやく納得してくれた。そして初めて僕が学会で研究発表する際には、自宅に呼び寄せて様々な観点から内容に穴がないかを確かめるように様々な指摘をしてくれた。そして御体調が悪い時期でありながら、学会にも足を運び再び敢えて公に厳しい質問をしてくれた。
かくしてその学会発表を機に、その内容を初めて雑誌論文に投稿し採用され、僕の研究者としての一歩が踏み出された。もちろんそれは中高専任教員として“二足の草鞋”での挑戦であった。だがしかし、所属した大学院の指導教授は、「文学研究をすることこそ最高の教材研究」という信念を僕に伝え続けてくれた。研究をすることは教育に対して大きく貢献できるのである。ゆえに現場での仕事がどんなに忙しくとも、研究に対して妥協はしなかった。(現場の仕事の効率化を考えるようにもなった。)自ずと睡眠時間を削り無駄な時間をなくし、整骨院に通わないと両肩に痛みが走り、首が回らないほどの思いを経て、修士論文を書き上げた。
僕の今があるのは、この時の苦闘が出発点となる。あらためて思うのは、「研究者か教育者か」という二項対立の問答は、現在の実情からいうと無用のものである。「大学教員」である以上、「研究者」であり「教育者」の両方の要素を高次に兼ね備えていなければならないからだ。図らずも、僕はその双方の経験を存分に現場で積んで来た自負がある。あの電話で、恩師が伝えたかったことは、こういうことだったのではないか。
人生には誰しも、
たぶんいくつかの大きな岐路が用意されているのだろう。
その一つで、恩師からいただいた“叱責の意味”。
それが今、まさに現実に報われようとしている。
常に研究室では厳しかった恩師が、
南国の空の上から微笑んでいるかのようである。
そういえば恩師はこんなことも言っていた。
「晩年になったら、魚が美味しい地方にある大学にでも赴任したい。」
確かに此処は魚が美味いのである。
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