教員は学び続けるべきだが
2013-03-08
教員が良い授業をする為にはどうしたらよいか。いうまでもないが、「学び」続けることである。
だが、学校現場では真に「学ぶ」余裕が奪われることも多い。
学ぼうとする者の肩身が狭く、
忙殺されていた方が高い評価を受けることもある。
本気で教育再生を考えるならば、
まずは教員が学ぶ意欲に満ちるような環境を整備することである。
教育が充実している国ほどそのような状況である。
「教えるとは学ぶこと」などと月並に言われる。自らがどれほど深く教材を追究しているかによって、授業のあり様も大きく変化する。「教えて」いれば「学び」たくなるのが自然な発想であろう。僕の大学院時代の指導教授は常々語っていた。「文学研究は、究極の教材研究である。」と。研究学会で発表すれば、「日本一の教材研究」を実施したことになると。教材の解釈に新たな提案が為されるわけであるから。
ところが、往々にして「学んで」いると現場では勘違いされることも多い。「学校の“仕事”に集中していない。」といった見方が為されてしまう。学外に学びの場を求めて“出て行く”ことに対しても、なかなか正当な理解が得られない場合も多い。だがしかし、その程度に「学んで」いなければ、最大の“仕事”である「授業」を疎かにしていることにもなるはずだ。むしろ忙殺されている輩の方が、「“仕事”に集中していない」といえるかもしれない。
ある方にお会いして、学校現場とはどうあるべきかを改めて考えた。
その方は、常に自分で物事を発想し・調べ・書き・発表している。
それでこそ教材の深淵を語れるというもの。
教材のみならず、人の気持ちを察することにも敏感だ。
「学ぶ」とは「自己を曝す」ことでもある。
教員として何が大切か、今一度深く考えておきたい。
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