世代論としての“沈滞”
2013-02-21
真面目で授業を休むこともない。何事も指示通りに履行する。
与えられた課題は無難にこなす。
されど、
個性的な発言や目立つ行動は控える。
いわば、最近の学生の表面上の印象である。いつの時代も“世代論”は語られて、「若者は変わった」という論調が巷間を闊歩する。「新人類」「宇宙人」といった類のことばが過去にも語られ続けてきた。そして何の根拠もないのだが、「平成生まれ」の若者が、今は就職し社会人となっていることを“新世代”として語ることもある。学校では、「平成生まれ」が「中学に入学して来た。」「高校生になった。」「大学入試を受験した。」などと節目ごとに、特異な世代が進出してきたかのような会話が頻繁に行われて来た。
もちろん学生個々と話していると、その個性は様々であり“典型”では語れないのは自明のこと。よく大学の校風にも照らし合わせて、「○△大学の学生なのに・・・である。」という語り口を耳にすることもあり、僕たちもついつい語ることがある。自分の学生時代とは、こんな点が変化したという“学生文化”の断層を意識した発言である。それが全く無用な“評価”であるというわけでもなく、時に現状分析として必要であるとも感じることも多い。
特に最近感じるのは、自発的な行動を起こさないこと。裏を返せば“指示待ち”ということ。小中高という学校生活を通じて、全てを与えられ面倒見のよい教育環境に育ったからだろうか。また社会環境の上でも、Web(携帯スマホ等を含む)から多様な情報が与えられ、“指示通り”にクリック(タップ)すれば全てが実行できるということの影響もあるような気がしている。〈教室〉の雰囲気も年々、“内向き”となってきたことが否めず、その心の扉を開くのに時間や多様な手段を要すると感じている。
唐突な話題転換のようだが、奇しくも今年は第3回WBCが開催される。その日本代表チームには若手有望株の選手も多い。だが、過去2回の代表チームに比べて、とても大人しい雰囲気が全面に漂っている。多くの選手がマイペースなのである。悪くいえば、個性なき沈滞ムードが漂っているともいえよう。メジャー組がいないという価値基準以上に、世代的な“雰囲気”が握るものがあまりにも大きいように、僕には見える。
変化してこその世代。
その長所が活かせるような教育を実行すべきであろう。
指導者と学習者(選手)の間で、
様々な意見交換が有効に為されるコミュニケーションこそ、
今現在求められている課題なのかもしれない。
それは、教育現場も野球チームも同様である。
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