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理不尽には知性と教養で

2013-02-14
小学生のとき理にかなわないことを暴力で訴える輩が嫌だった。ましてや自分自身ではなく、上級生の“威を借る”ような状況を作り、思い通りにことを運ぼうとする輩には深い憤りがあった。そのような主張がありながら、小学校前半の頃の僕は、泣き寝入りを決め込んでしまうことも多かった。

次第に理性と知性こそが武器になることを覚えた。選挙で何度も破れながらも学級委員になった。得意な社会科の授業において桁外れの知識を披露することで、自分の個性を主張できるようになった。次第に脚力も強化されて、走ったり跳んだりする力がたいていの級友に負けなくなった。そんな“自己”を確立する小学校後半であったと記憶する。

国際社会の関係性に直結して考えるのは、聊か慎重であるべきだが、核兵器を翳して国の威信を訴えることの何とも幼いこと。特に指導者の童顔と二重写しとなり、ことばにならない理不尽を感じる。同時に、それが本当に“幼い”のであるとしたら、幼児・児童には“理”が通じないのと同様に“暴発”への懸念も高まるといえるかもしれない。

グアムでの無差別殺人もまた然り。何が訴えたいというのか?自分勝手な発想しかない理不尽極まる暴力行為に及ぶことは、あらゆる理由を探したとしても許されない、“幼さ”の暴発といえよう。犠牲になった方々の無念を思い、心よりご冥福をお祈りする。

知性と教養こそ、人として生きる道であろう。だがしかし、そのあるべき水域を尊重しない風潮が社会で表面化している。短絡的な思考、暴論への志向、難解さへの忌避等々。物事は単純に解決するものではない。錯綜し困惑し試論を叩き光を模索してこそ、歩むべき道が見えて来る。そのような経験を教育の現場で積むべきなのである。

世の理不尽に対する思いは、
小学生のときから変わらない。
ゆえに知性と教養を大切に育てる存在でありたい。
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