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芝居と落語の境目

2013-02-12
落語とは描きたい全ての世界を、語りのみで伝える伝統芸能である。独りで多くの人間を座りながらにして声のみで演じ分ける。最低限の所作で場面状況を再現しつつ、やはり「声」に大きく依存した芸能である。聴く側にも想像力が要求され、一定の知識が求められる。その共感性がライブにより再現され一つの物語が完成する。

その落語を芝居として演じたらどうなるか?そんな興味を可視化したのが「鹿芝居」である。懇意にする落語家・金原亭馬治さんも名を連ねた国立演芸場「大喜利 鹿芝居『當ルハ八卦賑道中—落語御神酒徳利』」を参観に行った。有名な落語ネタ「御神酒徳利」。下賜された大切な「徳利」をよかれと水瓶の中にしまい込んだ番頭が、その存在を言い忘れて御店は大騒ぎ。仕方なく番頭は、「算盤占い」ができると“語り”、自ら「徳利」のありかを「占い当てる」。その「占い師」としての力が見込まれて、上方へと招かれる。道中の旅籠で再び「財布の紛失」に遭遇。果たして「算盤占い」の効力やいかに・・・といった粗筋で落語においては更に上方まで旅をする長講である。

「鹿芝居」では、前半の江戸・中盤の神奈川宿までが演じられた。「似非占い師」であるはずの番頭・吉兵衛が、その真実が露見する寸でのところで“功徳”を発揮し、関わる人々も幸せになって行く。落語でこの演目を聞いた時の印象であると、算盤を弾き「占い」を出していく場面が実に面白おかしく語られる。ところが「鹿芝居」では、その「算盤」が全面的に大きな舞台道具となって置かれて、その存在感が際立つ。「似非占い師」として夜逃げまで敢行しようとする吉兵衛の言動が中心に描かれている。芝居としての配役と小道具を駆使した結果、どこに焦点を当てて演じるかというのは、大変難しいものであると実感した。

どこまで可視化した芝居をするか。
どこまで聴衆がわかる語りをするか。
明かし過ぎない、説明し過ぎない。
落語の妙は想像を聴衆に委ねる点にある。(と僕は考えている。)

教育現場でもまた同じ。
懇切丁寧な説明が学習者を伸ばすとは限らない。
極論すれば、時に“如何にわかりにくく説明するか”が重要な場合もある。
学ぶ者に考えさせる授業こそ求められるべき姿であろう。(と僕は考えている。)

古典芸能の微妙な演目の融合から再び貴重なヒントを学んだ思いであった。
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