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誇りと現実の報酬

2013-01-24
学園ドラマに登場する教師は、報酬に関して全くと言っていいほど無頓着だ。それにも関わらず、生活の全てを賭けて生徒に向き合っている。ドラマのテーマにおいても、給与に関するものはほぼ皆無と言っていいだろう。いわば「教師としての誇り」で、教育にその身を没頭させている。虚構のドラマであるゆえに、放映時間の枠内で、たいていの事件が解決する。

刑事ドラマもまた同じ。彼らは警察官としてほぼ報酬は度外視し、命を賭けて悪を許さじと奮闘する。私生活が殆ど描かれないのは学園ドラマと同じ。刑事が集まる部屋を拠点としつつ、「現場」たる事件の起こる巷間が主たる舞台である。学園ドラマであれば、その舞台はほとんどが〈教室〉空間ということになろう。

過去には「聖職者」と呼ばれた職業人を題材にしたドラマでは、「報酬を度外視する」姿勢で、「現場」の問題について困難を乗り越えながらも痛快に解決するストーリー展開が主軸となる。主役となる教師や刑事は、「身体を張って」仕事に取り組む。同僚には「報酬」を気にする人物が必ず好対照に描かれていて、主役である人物の行動を引き立てる。

警察官においてはさて知らず、教師においてはこうした学園ドラマに嫌悪感を示す方が多いと身近で感じていた。あれほど報酬を度外視し生活を犠牲にしなければ、教師として輝く存在ではないという喧伝が、生徒や保護者という仕事上で面と向かう人々に波及してしまうことを忌避するからではないかと思う。またドラマでは確実に事件の解決が約束されているが、現実の〈教室〉では未解決の事態も多く、常に問題と向き合わねばならないという使命が教師にあるからではないか。「良い先生」とは何か?という感覚を、造り上げられたヒーローの如きものであると勘違いされてしまう危険性が、現実の教師が学園ドラマを嫌う理由だろう。

いくつかの県で、教員や警察官が退職金の引き下げに伴い早期退職が急増しているという報道が喧しい。年度の終わりを待たずして〈教室〉から担任が消えてしまうとか、学校の中核たる管理職が消えるという現場もあるらしい。ドラマ的尺度でのもの言いが許されるならば、彼らは「誇りよりも報酬」を選択したということになる。だが果たしてそうした尺度で職業上の“使命感”に依存して、彼らを責めることができるだろうか?「聖職者たる者」といった精神的な領域を以てして、生徒を人質に退職金の減額を受け容れなければならない方々の立場も十分に理解できる。「聖職者たる」という標語が有効であるとすれば、報酬を含めて精神的に余裕のある待遇が求められて然りではないだろうか。

巷間では「教員は楽である」という感覚が一部に横行していることも、僕自身が過去に痛感したことだ。自動車で通勤していた頃、夏休み中に近所のガソリンスタンドに給油に行くと、そこの“オヤジ”が必ず、「休みが長くていいですね〜」と毎度繰り返すように皮肉めいたことばを僕に投げ掛けていたのが思い出される。もちろん夏休み中でも給油をするということは、部活動の練習・試合・合宿などで“通勤”するからに他ならない。授業が無ければ仕事が無く、「何もしないのに給与が貰える」といった短絡的な教員に対する偏見が、確かに存在しているように思われる。

教育が安定している国では、教員に威厳がある。
それは待遇を含めて社会が教員を大切にしているから。
早期退職を選択した教員・警察官の方々の行動は何を意味しているか?
そんな課題を、冷静かつ知性を持って社会が受け止めなければならない。

「事件は現場で起こっている。」
〈教室〉に立つ者が紛れもなく教育を支えている。
ドラマの中のことばにも真理がないわけではない。
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