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体罰へと至る空気

2013-01-13
「うるせぇー!静かにしろ!」
僕が新卒で教員になって最初に生徒たちに浴びせた暴力的な“声”であった。
そのこれ以上ないと思われるほどの莫大な“声”に対して、
「お前の方がうるせぇーよ!」
といって立ち上がり、僕の方に歩んで来ようとした1人の男子生徒がいた。
若かりしときの僕は、彼と取っ組み合いになっても仕方ないと、
覚悟を決めるほど顔面は紅潮していたはずだ。
周囲の数人の生徒が彼を静止する。
その場は、何とか収まった。
だがしかし、教室全体は静かになっても、
そのクラスの生徒一人一人との間には、確実に壁ができた。
教員になって1ヶ月ほどしか経っていない未熟な僕は深く考えた。
教壇という物理的にも「上から」の視線で、
権威を誇示しようと暴力的な“声”を浴びせたとしても
何ら解決にはならないということを悟った。
その時、僕に迫ろうとした彼の視線を今でも忘れない。
それは彼から、未熟な僕が“学んだ”と思っているからである。

「舐められてはいけない」
学校の雰囲気にもよるが、新人教員が誰しも1度は思うことであろう。
場合によると、先輩教員がそのようなことを言うことも多い。
「舐められない為にどうするか」
そこが教員としての「プロ意識」なのだと思うが、
なかなか新人教員には難しい問題だ。
そこで止む無く、前述した僕の経験のような「暴発」に至る。
あの時、彼と身体的に接近したら、果たしてどうなっていたのか?
その状況が回避されたことを、この上ない幸運だと思う。
周囲で理性を持って彼を制止してくれた生徒たちに、
今にして心から感謝したいほどだ。

僕は、著書『声で思考する国語教育』(ひつじ書房・2012年4月刊)にも記したこのエピソードを出発点に、様々な模索を繰り返し20年以上の中高教員の経験をして来た。その中で得られた信条は、生徒に「敬愛」の気持ちを決して絶やさないということだ。その気持ちが確実にコミュニケーションを醸成し、ことばが交わされ、心が通じ合うことができる、と信じている。反抗的な生徒に接する時こそ、その「敬愛」の心を高めるようになった。心が通うようになるには忍耐も必要である。

だが、この境地に至るまでには様々な模索があった。同じ学年を担当する体育教員が、体罰による指導を前面に出している場合もあった。横並びのクラスの中で、担任によって指導方針が違うのは当然ながら、「厳しい指導」が求められる空気となる。その空気によって、他の担任たちも「体罰」に及ぶケースが増えた。この空気の延長上には、やはり部活動指導が存在していたように思う。部活動のレベルを高度に上げて行く為には、体罰が必要であるという考え方。そうでなければ部活動としての統制や戦績は決して保たれないという意識。そんな現実を、若かりし日の僕は身を以て体験した。だが、その場を目の当たりにする際には、いつも喩えようのない気持ちが去来していた。(と記憶する。)

「体罰」に関して、桑田真澄さんが朝日新聞(1月12日付掲載)の取材に応じている。その一部を引用しておく。

「「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子供を思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。」

「体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、自分でプレーの判断ができません。
 殴ってうまくなるなら誰でもプロ選手になれます。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」と言う人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。
 アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。」


この内容は、桑田さんの自らの経験や早大大学院時代に収集したデータを元にした実に適切な提言であると支持したい。


グローバルな時代と言われて久しい。
だがしかし、未だ旧弊が残存し疑問視されないことが日常にあるということ。
社会が意識を持つ為に、かけがえのない命が犠牲になってしまった。
本当の「厳しさ」とは「愛情」の裏返しであるはず。
それを置き去りにして、教育問題に対する強引な論調も目についていた世相。
昭和の遺物から“脱却”しようというならば、
まずはこうした旧態依然とした思考から抜け出さねばなるまい。

最後にもう一つ、僕の体験を記しておこう。
高校教員としてハワイ研修旅行を引率したときのこと。
隣のクラスの生徒数名がバスの集合時間に遅れた。
そのクラスの担任は、バスの前で待ち構えて彼らを平手打ちにした。
その光景を隣のバスの車窓から見ていた僕はふとある視線に気付いた。
バスの女性運転手が、犯罪行為を見るかのような、
実に驚きに満ちた視線でその行為を見ていたのだ。
アジアの教育の一側面は、
欧米市民の眼に「野蛮」としか映らなかったであろう。
今思えば、女性運転手が警察にでも通報したらどうなっていたのか、
などとも考えてしまう。



オリンピックのメダル成果を語るのも悪くはない。
だが、オリンピック招致を学校に横断幕を掲げて声高に語る前に、
日本の学校スポーツを、確実に健全化することが先決である。

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