しなやかに峙立する現在
2013-01-01
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
昨日、2012年も無事に大晦日を迎えた。小欄は前日に気付いたこと感じたことを記すのが基本的な姿勢なので、過去の元日記事を振り返っても「時間意識」といった内容になりがちである。そんな固定された“型”を脱しようかと考え、せめて新年のご挨拶を述べた。とはいいながら、この「旧年と新年」の大きな意識の違いを「日本文化の一大特質」であると考えているゆえ、他のどの日付とも違う“特別な意識”を持ってしまう必然の中で語ることになる。
暦が新規になる。平和に新しき年が迎えられた幸福。初詣はその行為自体に意義があるのではなく、行為により生じる精神的な変節が重要であると考えたい。あくまで他力本願でない今現在を生きるということである。「二年詣り」という方式は、実に「旧年と新年」という意識の上にあるもの。そこにどんな変化があるというのだろうか?
このように考えた末、2013年1月1日0時00分の迎え方に変化を求めた。「二年詣り」ならぬ「二年歩き」を実行してみたのだ。ここ数年来、歩きながら思考することに大きな効用があるという自覚がある。発想の固着を打破するには、まず歩くことだ。その一歩一歩前に進むという行為が、脳内にも同じような作用をもたらす。かくして新年を“前進しながら”迎えることができた。
目的地に一歩一歩近づくこと。そのしなやかなに峙立する現在を繰り返すことが、まさに“生きる”ということの“表象”である。現在踏みしめた一歩は、次の瞬間には過去となり、道の行く手には未来が見える。その身体的な動きと同様に、脳内も新鮮に更新されるのが理想的である。動かし難い過去に囚われるわけでもなく、かといって一時に定めた目標地点のみが歩みの先ではないという柔軟性。“しなやかに”という趣旨は、こうした思考を意識化する語彙ともいえる。
年末年始に放映されるTV番組は、自ずと「回顧と展望」をテーマとする。必然的に大晦日の深夜は、究極にこうした前後を見極める機会であろう。だがしかし、人の世の定めとは「峙立する現在」を生きることしかできないのだ。「峙」とは「そばだつ。じっと動かないで、まっすぐに立つ」(『漢字源』)ということ。人にとって“確約された”今現在を“そばだてる”。意外にこの「確約」に無自覚で今現在を疎かにしてしまうことも多い。ゆえに「じっと動かない」今現在を「動き続ける」のである。そこに固着しない「しなやかさ」が生じる。この逆説に満ちた意識を体感するために、年越しの際に歩み続けたのである。
今現在。
まさに元日という一歩をしなやかに。
峙立しつつ視野を全方位に向ける。
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