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この時季の高校3年生

2012-12-14
大学入試センター試験まで約1ヶ月、私大入試が始まるまで約1ヶ月半。この時季の高校3年生は、大学受験に向けて引き締まった面持ちの者が多いのも必然である。そんな状況下で、高校生活最後の定期試験が行われている頃であろう。高校の学びにおける最後の試験であるが、こと定期考査に関してはその取り組みに大きな個人差が生じるように感じている。既に推薦入試等で大学に合格している者は、試験に対する張り合いを失ってか点数も振るわない。換言すれば、学校の学習そのものに意味を見出していない。一方で、今後一般で大学入試を目指している者でも、個人的に受験勉強という枠組を設けている場合は(例えば予備校の勉強のみに躍起になっている)、定期試験の成績は惨憺たる場合もある。高校3年生を担当してこうした状況を鑑みると、果たして高校での学びとは何であるのかと、甚だしい空虚感と憤慨を伴った深い疑念に取り憑かれるのである。

この時季の定期試験に集約的に表れる現象は、勿論、日常的な授業に伏線が多々ある。「(受験に必要がないと)要らない科目」と捉える感覚である。こうなると当然授業には身が入らず、場合によると自分なりの時間として活用しようとする者も現れる。僕自身が高校生の時にも、こんな経験があった。「古典講読」といった選択科目で、あまりに授業が退屈なので教科書に掲載されている『源氏物語』を自ら読み通していた。そこで読んだ上での疑問を、帰宅して『源氏物語要説』(確か、野村嗣男著・日栄社刊)のような解説本で確認していた。教員はひたすら文法の空虚な説明を独り舞台で演じていたと記憶する。こうして僕自身は、「古典講読」の内容に沿って、“意義ある”時間の使い方をしていた。今現在、このような専攻で研究に勤しんでいるのも、この時の『源氏』への読み込みや、教員の授業方法への疑問などが原点となっているのは確かである。

受験勉強という域を超えて、文学をともに考える授業にしたい。と思うのはあくまで理想なのであろうか。換言すれば大学入試以外の、生きる為に学ぶという動機付けを高校生に施したいという思いを常に抱いて来た。未だその理想は現実には成り得ていない。何校かの高校の教壇に立って来たが、どうしても入試対策という“呪縛”から解き放たれる、あるいは脱出することはできなかった。著名な進学校はいざ知らず、中堅レベルで進学校を意識しようとしている学校ほど、この“呪縛”が強い力として作用する。大幅に譲歩して、教員が文学を語る為の裁量が許されるのは、せめて高校2年生までという結論めいたものを、ある大学入試問題に詳しい大学教授と交わしたこともあった。それならば開き直って、高校3年生では徹底的に“予備校的”な授業を展開すればいいのだが、高校教員としてそうしたくないという感情的な支配と、そこまで特化した授業方法を持ち得ていないということの狭間で、実に中途半端な状況に彷徨っている先生方が多いのではないだろうか。もちろん、その先には、現況の大学入試のあり方は妥当か否かという、大きな問題を抱えているのであるが。

少なくとも、5教科7科目のセンター試験を課し、2次試験で専門科目の記述力を含めた問題を課すという国公立の入試制度であれば、高校授業を最大限に活かし、入試対策とその先にある大学で学ぶ為の力を両立して養える設定が可能ではないかと思える。「要らない科目」というのが授業であり得ないからである。(高校3年次の体育や芸術科目は、受験勉強の余暇的な位置づけとして、むしろ生徒は楽しんで参加する傾向があるので。)

思いつくままに、この時季の高校3年生のあり様から
戯言を綴ってしまった。

大学での教育内容改革が声高に叫ばれ始めている今、
自明のことではあるが、同時に高校での教育内容改革にも注目すべきであろう。
それはまた大学入試のあり方を問うという、
避けて通れない道を模索することでもある。
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