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「脱ゆとり」という評価でいいのか

2012-12-13
2011年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS・63カ国・地域が参加)で、日本の小学4年生の得点が過去最高であり、文部科学省は「脱ゆとり」への転換が要因であるとしている報道があった。そして尚、「数学の勉強が好き」という中学2年生が4割に満たないなど、勉強意欲は国際平均を大きく下回り、学力との不均衡も目立つという。この動向調査の国際的な位置づけや意義、また95年以降の過去最高点という評価の指標をどう見たらいいのか。またその結果がただちに「脱ゆとり」であると分析していいのか、やや当惑をせざるを得ない感覚で受け止めた。

大きな問題は、「学力と勉強意欲の不均衡」ではないか。数学・理科に限定した教科としての性質上、積み上げが学習を繰り返し励行すれば単純に点数は上昇するであろう。だがしかし、これは考えようによっては、「詰め込み」の再来ではないのか。要するに「脱ゆとり」は、過去への回帰をよしとするわけではないはずである。主体的な意欲もなく強制的に学習をした結果、一定の成果は出ても、意欲の減退が目立つという結果として、尚改善の方向性を模索しなければならないと考えるべきではないだろうか。

時間数や教材(教科書)の増加といった目に見えた「脱ゆとり」を標榜した新しい指導要領は、小学校で昨年度(2011年度)から、中学校で今年度(2012年度)から施行されている。高等学校ではいよいよ来年度(2013年度)からである。これによって単に教科書の厚さなども、目に見えて増幅されたといえるであろう。だがしかし、問題はそこからだ。その増えた時間、増えた教材をどのように学習者が意欲的に主体性をもって消化していくかが、実は重要なのである。

そこで導入されている考え方が、「言語活動」を通じた学習ということである。国語に限らず全ての教科は、「言語」により構成されている。よって「言語」を通じて、「読む・書く」「聞く・話す」という活動を学習者が主体的に行うことで、教科内容を学んで行くことになる。自ら「受信」→「理解」→「表現」することで、教科内容を腑に落ちたものにしていく。同時にどのような分野に対しても活用できるものにしていく。そんな意図が込められている。この理念においては、学習者が意欲的に自ら学ぶということが重要視されているはずである。この点が単なる理想として看過されてしまのは何とも虚しさが伴う。

抑が、国際的競争という指標の中で「過去最高点」ということ自体が、過去の学力観から脱し得ていない印象を受ける。学習者個々の多様化が認められる必要がある中、日本という国における学力観の位置づけも国際的な地平において、多様な方向を求めるべきではないだろうか。高度経済成長期における、大量生産と大量廃棄といった負の連鎖関係を断ち切り、新たな時代の生き方を模索しなければならないのではないか。「脱ゆとり」→「ゆとり反省」→「詰め込み回帰」という図式では、教育の改善には至らないであろう。「ゆとり」が掲げられた時点を思い返せば、その理念にも一理があった筈である。2000年代前半から表れ始めた日本人の国際的な学力低下傾向は、決して「ゆとり」だけが犯人ではないだろう。「犯人探し」をしてそこを排除すれば、全面的な改善になるほど教育は単純なものではないと思うのである。

「過去最高点」を声高に評価するよりも、
「勉強意欲」が国際的平均値を大きく下回ってしまっているという現状を憂い、
改善に向けて努力しなければならない。

現場で行われようとしている「言語活動」を通じた学習。
それも理論として理解する以上に、その実践には課題が山積していると見える。
教員個々の学力観そのものを大きく転換する必要があるからだ。
それは簡単には浸透しないのではないかと、
実践される現場を鑑みて痛感するのだが。



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