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「現代文」の勉強法

2012-12-11
高校生に「現代文の勉強法がわからない」という趣旨の質問を受けることが多い。日常行われる学校の定期考査においても、受験を対象とした場合もである。その時に開口一番、「飛躍的に成績が伸びる簡単な方法などはない」と答えることにしている。最近の傾向として、何事も分かりやすく簡単に説明されることが良しとされて、思考の迷路の中を彷徨いながら答えを発見するような行為は忌避されがちである。しかし、文章が読めるようになるということは、思考の森の中を迷いながら自らが道を発見する如き過程がない限り、なかなか得意とする領域まではいかないのが現実である。

社会の様態を反映してか、安易に答えだけを求める短絡的な傾向が子供達の間に横行しているように感じる。それだけに僕の場合は、質問を受けたとしてもこちら側から一方的に説明し尽くすことを避けるようにしている。まずは、質問者自身がどういう理解をしているのかを説明させるのが先決だ。質問者が、「わからない」と思う点を言語化すれば、どの程度の理解しかできていないかが自己認識されることになる。「わかる」ということは、全てそこが出発点ではないだろうか。

巷間で横行する“マニュアル化”の波。誰でもわかりやすく簡便に物事を遂行することができる指標である。その存在が必要な場合もあるが、安易な“魔法”のような存在があるという錯誤に及ぶと危険である。もちろん、〈教室〉という場は、わかりやすく説明が為されるべきではあろうが、学習する側が自ら思考しない限り、真の“学び”には成り得ない。板書した事項を色分けして巧みな説明を施すとか、教材準拠のワークブックに従うことなどが、むしろ学習者の思考の発達を阻害することもある。学ぶ者は、白い思考ノートの上に、自らの力で言語を記していくことでしか、学びは達成されない。たとえ学んだような気になっても、それは“腑に落ちた”理解には成り得ない。

端的に結論を述べるならば、現代文の勉強法とはただ一つである。
「丹念に文脈を逐うこと」
ただそれだけ。

そして運動競技の練習試合かの如く、
できるだけ多くの対戦相手に接することだ。
その相手は全て違う態度・方法で言語によって思考を描いている。
自らがその試合に臨み、自らで相手に対応することでしか、
勝利の道は見えて来ない。

起伏や変化に富んだ複雑な森の中で
自ら道を発見しようとすること。
そんな“トレッキング”を楽しめるようになれば、
現代文は実に楽しい科目なのである。

「丹念に(文)脈を逐うこと」
他の諸分野でも念頭に置きたいことでもある。
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